何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

せやろがいおじさんに子育て夫育ての肝を学ぶ

 最初に断っておくと、せやろがいおじさんが父親として子育てしてる話とか、その子育てについて動画で言及してるとか、そういう内容ではありませんのであしからず。

でも、この方の動画を見て「うわ~これコミュニケーションのツボ抑えてるわ~。めっちゃお手本になるじゃん!」と感動したので、主に子どもや夫とのコミュニケーションに役立つんじゃないか?と思ったのでブログで解説したいと思いました。 

正直言って子育て夫育てに応用するとなると結構絵空事も多いです。私もやれっていわれたらできないことのほうが多いです。でも、ちまたで話題のアドラー心理学の勇気づけだったり、療育だったりペアレントトレーニングだったりそういうところでも取り入れられている手法と似ていると感じました。

 

私はTwitterで流れてきた記事でこのせやろがいおじさんを初めて知りました。

 

ご存じない方はまずは本家のYouTubeをご覧くださいね~


りゅうちぇるのタトゥーについて思う事を沖縄の海に叫んだ【せやろがいおじさん】

 

今回例題にする

『松本人志さんの「死んだら負け」発言に一言【せやろがいおじさん 】』

がなぜか貼れなかったので、ちょうどよく

こちらのブログの方が↓

パオパオだより せやろがいおじさん、松本人志の「死んだら負け」に対する叫び全文

文字起こししてらしたのでちょっとお借りしますた。

全文ではなく部分的に引用して説明しますね。

 

一番最初はこの動画で言いたい「結論」をまず端的にまとめています。

とにかく「主訴」がなんなのかをまずはっきりさせています。

これはまあ子育てではそこまで重要ではないかもしれませんがスピーチとしてはすばらしいと思います。

 

”松本人志さんと
せやろがいおじさん
芸人として
天と地どころか
天とマントルぐらいの
差あるけど
言いたいことがあるから
マントル在住の
地底人の戯言
聞いたって!”

 この部分に関しては、芸人界ではそれこそ天と地ほどの差がある立場であることからかなりへりくだっていますが、夫や子ども相手ならば遜るより対等であることを示した方がいいかもしれません。子ども相手だとどうしても上から目線になりがちですが、対等な方が長い目で見るとこちらのメッセージは伝わります。意外と子どもって「この人は自分を支配しようとしてる」ということに敏感です。

 例えば、「またおもちゃちらかして~(#`Д´)ちゃんと片付けなさい!」と叱るより「ねぇねぇ○○ちゃん、ここにおもちゃが落ちてるとねママ踏んづけちゃってイタイイタイ!なんだ。片付けてくれるとすごーく助かるなあ」と接する、なんてことは効果的です。夫に「ボーっと見てないでオムツ替えでも手伝いなさいよ!?」というより「ちょっと洗濯物取り込みたいから協力してほしいんだけど、おむつ替えとどっちなら今できる?」と聞く(これは「やらない」という選択肢を塞ぐのにも有効かも。)命令するのではなく、依頼する、お願いするという姿勢ですかね。

 

”いや松本さんの
言いたい事は分かる!
死んだら皆んな
私に優しく
してくれるんや
じゃあもう
いっそのこと
死んじゃおうかな
ってなる風潮を 
どうにか
しようぜ!
ってことなんやな!?

これ自体は
大賛成!”

↑ここ!ここがとにかく素晴らしい!

「主訴」で確認したように言いたいことは提案、それも松本人志の発言を批判することを通しての提案です。ですが!まずは相手を承認しています。

 物議をかもしている「死んだら負け」の文言そのものに着目するのではなく、「何を意図しての発言だったか?」の部分を汲み取って認めているわけです。行間を読んで、そこを褒めているとも言えます。炎上すると現れるコメンテーターみたいな人たちはなかなかこれができていません。今回の件でも反論するコメントいっぱいいましたが、真っ向勝負して「それ違う!」っていうから出したツノ引っ込められない(発言を撤回しない)わけです。

 ただこの場合は、「ワイドナショー」があり、松本さんの反論もあったから推測できたわけですが、特に子どものしたことを意図をくみ取るって難しいですからかなりの観察眼が必要となりますし、「どうして〇〇したの?」「なぜこんな発言をしたの?」と聞くにしてもまずは前述のように対等であることをアピールしてないと「どうせわかってくれないじゃん」と心を閉ざすことにもつながってしまいます。共感、受容が大事!

 たとえば、子どもが万引きで捕まったとしよう。「なんで万引きなんかしたのよ!?」と理由聞いてるようで既に批判口調だったり「今度万引きしたら追い出すからね!」と罰を与えたり「欲しいものあるならお金ちゃんとあげるから万引きはやめな」等甘やかしたりお金で解決しようとしても、おそらく問題は解決しません。

 なぜ万引きしたのか?

・スリルを味わいたかった

・おなかすいてて衝動的に

・友達に命令されて断れず

・ムシャクシャしていてストレスを解消したかった

・お母さんに自分に関心を持ってほしかった

等々いろんな理由が考えられます。万引きそのものは否定してもいいけど、この↑の部分については共感・受容することができるんです。その上で解決法を考えたほうが合理的建設的です。

 

”ただ!
言葉尻捕まえるようで
申し訳ないけど
やっぱり
負けという言葉には
亡くなった方を
罰したり
ジャッジ
したりする
ニュアンスが
こもってるから
そこに
引っ張られて
本来伝えたい
意味が
伝わって無いなぁ
というのが
勿体無いなあ
と思うんや!

それにやっぱ
限界まで
追い込まれたら
勝ち負けっていう
価値観って
やっぱ
弱い
と思うねん”

そのやり方だと伝えたいことが伝わらない、意図したことが誤解されて、結果損してますよ、あなたに不利益があることを心配しているという姿勢を示していることで、ただの正論や正義感、ルールの押し付けではなく、相手を尊敬しているからこその意見であることが窺えます。

例えば産後すぐの大変な時期に夫が無断で朝帰りした。

・先輩に飲みに誘われてしかたなく

・連絡したら怒られるだろうと思って言えなくて

・ストレスたまってたから発散したくて

などなどの理由があったとします。前段のように、「誘われたら断れないこともあるよね」「仕事大変だろうからストレスたまるのもわかるよ」「連絡したら『帰ってこい!』って怒られるかもしれないって思ったんだよね。そう思わせるくらい私が気が立ってたってことについては申し訳ないと思うよ」等々、部分的に受容し、その上で「でも連絡がないと、もしかしたら事故にあったのかも知れないと不安になるし、もし赤ちゃんに何かあって病院に行くってなっても連絡つかなかったらあなたも困るよね?結局こうやって話し合わなきゃならないんだから私もあなたも余計ストレスがたまるだけだよね?事前に相談してくれたらじゃあどうやってお互いストレス解消の時間を確保できるか話し合えると思うんだ」と感情的でなく伝えたらコミュニケーションが深まると思うんです。実際にはなかなかそうなれないですけどねえ。

 

「勝ち負け」のところは私もずーっとモヤモヤしていたんです。ここの部分は、相手に対してではなくむしろ第三者に共感している部分です。多くの人はこの部分に引っかかりを感じても炎上するとそこが置き去りになってバッシングする方も明後日の方向に行き、結局なんだかさっぱりしないなー。。。ってところにカタルシスをもたらしてくれました。第三者の意見を代弁してくれた、ととらえられます。

 

”例えば
4の地固め
ガッツリ 
決まってて
痛い痛い
痛ァ~い!
痛い痛い
痛ア~い!
って言ってる
人の隣で
おい!
ギブしたら
負けだぞ~
おい!
ギブしたら
負けだぞ~
って言ってる
セコンド
ポンコツやん!?
そんなん
言われても
いや
負けでええから
早く楽に
ならせて
って思うたり
やと思うねん

おい!
いっかい体
反転させて!
相手の体勢を
戻そうとした
反動を
活かして
ロープまで
逃げろ!!
って具体的な
逃げ方のアドバイスした方が
絶対
役立つ
と思わん!?”

この具体例をおもしろおかしく挙げる、という部分は芸人さんならではの特技かもしれません。批判ってするだけして「で、どうすればいいの?」っていう部分が語られず今度は批判した方がバッシング対象になるなんてこともよくあります。それをこれだけ臨場感溢れるわかりやすい例えをすることで、批判された当人も第三者も納得できる。

これは例えば児童館などで他の子の使っているおもちゃをほしくてぶんどってしまった子どもに「取っちゃダメでしょ!」って叱ったり「これはほかの子が使ってるからあっちのおもちゃで遊んだら?」と誘導するのではなく「他の子が遊んでるおもちゃを使いたいときは『貸して』って言ってみたらどうかな。ママと一緒に練習してみようか」

などということで子どもも「人が使ってるものを使いたいときは『貸して』といえばよい」と学ぶわけです。「取っちゃダメ!」って子どもに叱るパパに「今とっちゃ駄目って言ったのはどういう意図だったの?もし社会のルールを学ばせたいんだったら~すると子どもにも伝わる思うんだけどどう思う?」って提案するのもありでしょう。

 

 

ここから先の部分は応用がきく、というより私の主張とリンクするので単に気に入っているというだけになりますがお付き合いください。

 

”メディアでは
亡くなった方を
憐れむ報道や
追い込んだ側を
バッシングする報道に
重きを置きがちや!
確かに
自殺した方の死は
悼まれるべきやし
追い込んだ側の
社会的責任は
追及されるべき
やと思う!

けど
行政とかNPOが
こんな感じの
相談窓口設けてて
こんな感じで
支援・対応
してくれるよ~て
アナウンスして
逃げ方を
お知らせ
した方が
メディアとして
より良い役割を
果たせると
ちゃうかな!?

えっ?
そんなところに
相談したって
何の解決にも
なるわけないじゃん

お前
めっっちゃ
ええこと
言うやん?
そういう意見が出たら
じゃあうどういう
逃げ場にしていったら
みたいな感じで
建設的な議論に
発展して
逃げ場の
質が高まったり
逃げ場の
数が増えたり
すると思うんや!

結局のところ
死んだら負けは
どこまで
行っても
具体性のない
精神論で
仕組みを変える
議論には
発展せえへん
と思う!”

↑この部分はもはや松本さん一人に対する主張ではなく、この問題そのものについて第三者も他人じゃないよ、できることがあるんだよ、ということを伝えているのですが。

私が敬愛するある講演家さんが言っていたことで、「話すことはプレゼントであり、持って帰れるサイズのプレゼントのスピーチだと違いが生まれる」という主旨のことを話されていたことがあります。

この例でいうならば、「いじめた相手を徹底的に調べ上げろ!」「法律を変えるように国に働きかけろ!」なんてことを主張してもそれを実行できるメディアは少ないでしょう。ですが「これやるといいよ」って提案してることが具体的でしかも実行しやすいサイズになってると思いません?しかもこれ、メディアだけでなくSNS上でもできることだし、なんなら学校の職員会議でも近所のおばちゃんたちの井戸端会議でも逃げ場について建設的な議論ができるきっかけになる可能性もある。第三者でいたい人が当事者になるメリットがすごくわかりやすいんです!

 

”まぁ結局
何が言いたい
かと言うと!!
死んだら負け
より
逃げるが勝ち
の方が
のええんとちゃうか~

せやろがい”

そうそう。世間では「逃げる」って悪いことのように捉えられてるけど「勝ち負け」にこだわるよりもよっぽど逃げる方が合理的なこともあると私も思うんです。自殺したい人にもこっちの方がまだ伝わる気がします。

 

 マザーテレサの名言で

 

 

『反戦集会には行かないけど、
平和集会
には行くわ』

というのがあります。

 ポジティブな方にフォーカスしてエネルギーを注ぐこと。

 

私は誰も傷つかずwin-winになるようなことを自己主張していきたいな~という野望があります。でも自己主張しつつ誰にでも受け入れてもらうってかなり難しいんです。当たり障りないことだとふわっとしすぎて心に響かないし、かといって過激な言動は誰かを傷つけがち。でも「自分はこういうのは嫌いだ」とか「僕もこれはおかしいと思ってる」って自己主張しつつもそれが誰をも傷つけない。その上でちょっとした笑いと救いをお届けする。それを体言しているせやろがいおじさん、尊敬してます。

私の「二度と働きたくない」を変えたもの(2)

 

 

前回、母の影響で「働くことはめっちゃ大変だ」と思って育ってきたことを書きました。一方で「専業主婦になればよい」という教育は受けてきませんでした。

うちの母自体が当時の田舎ではめずらしく東京の私立大学まで進学していた、つまり祖父母が「これからは女も学をつけて働くべきだ」という考えだったようで、叔母たちは大学まで進学はしていないとはいえ、母も叔母たちも定年近くまでフルタイムで働きながら子育てしていました。

 

ですので、うちの実家では「専業主婦(笑)」というような雰囲気があり、当然働いて社会で活躍することを前提に私の教育に力を入れてきたわけです。

私は前回記事にしたように自分の身を守るために(ある種逃げではありますが)仕事をやめ、専業主婦になりました。

しかし、前述のように「専業主婦なんて存在は意味がわからない」とずっと思っていました。

 ずいぶん昔の本ですが、

くたばれ!専業主婦

くたばれ!専業主婦

 

 

こんな本を読んだり(内容はほぼ忘れた。でも好感は持てなかった気がする)、

『未婚の母になって子育ても仕事も女性一人でやり遂げられると証明したい!』と息まいてた時期もありました。

なので、専業主婦に逃げたはいいけど存在意義を感じられないという矛盾を感じながら生活していました。

基本的に私の頭の中は育児と家庭を両立している人の味方です。これは自分の成育歴だけでなく福祉を勉強してきたり、「子育て支援を推進したい」という立場からあえてそうしている部分もあります。

一方でそれは育休中でもなく子どもが大きくなったら仕事に復帰しようと思っているわけでもなかった自分を自分で否定しているように感じていました。

フルタイムでは働きたくない(働く自信がない)、でも働いてる人は尊重すべき、

育児も家事も得意ではない、でも自分には仕事と両立する甲斐性もない、

専業主婦がバッシングされても落ち込むし

ワ―ママがバッシングされても腹が立つ。

なんだかよくわかんないけど、女に対する扱いのひどさに辟易としつつ

一方でどちらのことも敵対視したりもしながら

「なんで世の中の半数の子育て女性は仕事しがなら子育てもできてるんだろう」

「なんで世の中の半数の子育て女性は1日中子どもとずっと一緒にいて平気なんだろう」

と働いてるわけでもなく、かといって子育てを「あたりまえに」こなせるわけでもない自分の価値をどんどん低く見るようになっていました。

 

とにかくワンオペでの育児が大変だった。平日はまだしも土日が地獄。

夫との仲もどんどん悪くなったし。

 

ま、結論言うまで回りくどくなりましたが

育児の大変さ>働く大変さ

という図式に変わったわけです。

この「育児」の中には夫がクソだということやママ友付き合いも含まれます。加えて二人目が欲しかったけど不妊治療がうまくいかず、断念したことも大きいです。確実にこの先二人目妊娠報告が続々となされるであろうことは想像できたので(事実そうなった)、私の豆腐メンタルでは耐えられないだろうと踏んで予防線を張る必要があった。

 

そんなこんなで仕事から逃げた私は、今度育児から逃げるために仕事をすることになったわけでした。その時娘1歳半。都内激戦区のため認可はもちろん無理ですが、たまたま運よくタイミングがあい認証保育園に滑り込めたので、1歳児クラスから保育園に通ってました。週5日保育のうち、2日は仕事、2日は自分の時間、残り1日はママ友と子連れで遊んだりして休ませたり。

これだと「土日いれたらい週4日も休めるじゃん!」と思われがちですが、ワンオペ育児では土日は休みじゃありませーん!!むしろ仕事以上にハードですよ。

 

今もフルタイムではなく週2~3日しか働いてません。それでも保育園から幼稚園に移って時間が限られてかなり忙しく感じます。

専業主婦ではないけどフルタイムではない、というのも結構中途半端なもので、どちらにも共感しにくいし共感されにくい、微妙な立場だと思います。

この先フルタイムで働くことは考えていません。かといってまた専業主婦になることもない気がします。だからこそ今自分に合ったちょうどいい働き方ってものを模索しているところなわけです。

 

 専業主婦を経験してみた今、専業主婦のことを尊敬するようになりました。もちろんワ―ママもですが、どちらも私にはできないことをやっているからです。

 私は出産前からいかに手抜き育児をするかに命をかけて情報収集してたので、家事も育児も相当適当です。出産前は幼稚園まで3年待てばいい、って思ってたけど実質4年近いんですよ。1歳過ぎれば昼寝も減り歩けるようになれば移動範囲も広がるし、相手をしなきゃいけない時間も格段に増える。3歳近くなってようやく楽できるかなーってくらいにだいたい二人目妊娠してまたもう1巡。人によっては3巡。何年も何年も自分より子ども優先でそれに耐えられるってのがもう、すごい。育児しつつ家事してママ友付き合いして人によっては義両親のことおもてなしして・・・正直、社畜の家庭版か?ってくらい皆訓練されててその忍耐力に恐れ入ります。家庭の中だけで回してたらもったいないよ、ほんと。

 

だから専業主婦かフルタイムか?の二極じゃないあり方ってのがこれからはもっと必要ですよね。

専業主婦・・・いまだに3歳児神話に囚われて居る人。私と同じく逃げた人。育児と家事が好き、向いてる人。働きたいけど保育園入れず待機してるなどしょうがなくやってる人。どこに属しているかで対策が多少異なるが、これからは活かす道がいくらでもある!

 

フルタイムママ・・・働きたくないけど経済的事情で働かざるを得ない人、私と同じく育児から逃げた人、保活の都合上フルタイムにせざるを得なかった人や早く復帰しなきゃいけなかった人、仕事が大好きでフルで働く以外考えつかないという人。どこに属しているかで対策が多少(以下略。

 

いずれも社会を変えれば我慢する必要がなくなることはある。保育園が整備されればフルタイムじゃなくても預けられたり、逆に育休を長く取れれば早く復帰する必要がなかったり。

一方で自分の思考を変えることで変えられることもたくさんあると思う。

「子どもは3歳まで母が専業主婦として家で育てないと愛情不足になる」

「早く仕事に復帰しないとキャリアがもったいない、出世できない」

「私は取り立てて得意なこともないから社会に出ても役に立たない」

「育児してても男性と同等に働かないとなめられる」

などといった価値観が、本当に自分自身の本心から生まれたものなのか?

実はそう思い込まされてるだけでまったく根拠がない、とか

今まで見てなかっただけで選択肢はいくらでもあったりとか、ちょっと目線を変えるだけで気づける、変われることもたくさんある。

 

 

ホント女性ばっかり割食うな~と思うことだらけだけど、その分ふり幅も大きくて いずれ得るものも大きい気がします。これからどんどん女性は変わると思います。良い方に。

 

 

 

 

私の「二度と働きたくない」を変えたもの(1)

フルタイムの仕事を辞めて10年。

厳密には最後の1年半は

病気休暇とってたんだが

対外的には結婚で辞めたことになってる。

それよりも前から不眠症やうつ症状で通院はしていましたが。

職場の上司に「辞める前に休んでみたら?」と言われなかったら病気休暇は取っていなかったかもしれないが、それでも辞めてただろうな。

働きすぎだったし、自分でコントロールできないことも多すぎるし

それをわかってくれる人も少なかった。

本来、恋人や配偶者が一番の理解者になるはずだが、当時恋人だった現・夫は同業者ということもあり、わかってくれるどころか「僕なんてもっと大変だ!君なんてまだまだやれるじゃん」と余計私を追い込んでいました。

いやーほんとブラック夫です。夫との過去のエピソードを人に話すと

「変わった旦那さんだねー。。。」

「なんでそんな人と結婚したの?」

「なんでそれをですこさんは許すの?」

と言われることが多いです。今なら私もそう思うし、昔の自分にアドバイスするなら

「こいつと結婚だけはやめとけ」と言うでしょう。

でも、当時の自分にとっては夫よりも仕事の方がもっと真っ黒のブラックでした。なので少しマシな方のブラックに逃げました。なんでもいいから仕事辞める口実ができるなら結婚でもいいよ、むしろ好都合だよ、と思っていました。

 

専業主婦になってからは

突然二次創作に目覚めて

同人活動始めてみたり、

半ひきこもりで外とは関わりたくなかったから

在宅でできるまとめサイトで

アフィリエイトやってみたり

 

popbisco.hateblo.jp

 

 

時々仕事というかバイトのお誘いがあったり自分でも働いてみようかなーと思うこともありましたが

「人と関わりたくない」

「また傷つくかもしれない」

「どうせ妊娠したらやめなきゃなんないし」

と思って引きこもりを続けていました。

 

 

病気は乳がんのことです。働けない、〇〇できない、の口実としてインパクトありましたよー。

実質フルタイムで働いた期間はせいぜい4年くらい?

 

元々働くの嫌だ―って10代の頃から思ってたので、

専門学校行ったり大学院行ったりでなるべく就職する時期を遅らせてきたのでした。

 

余談だけど

あるママ友に

「出産前まで働いてたの?」ってなんとなく

聞いたら

「私一度も就職したことないの」って

答えが帰ってきて度肝抜かれたことがあるけど、たった4年なら私もたいして変わらないですよね。

 

元々なんでそんなに働くのが嫌だったかというとそこは親の価値観に縛られていたんだと思います。

うちの両親はともに公務員だったので安定こそ至高!一般企業は大変だ、私の体力気力では無理!学生のうちはアルバイトなどしなくていい!勉強さえしてれば金を出す!

そんな親(っつーか母)でした。

大学卒業後は田舎に戻って公務員しろ!と色々根回しされたりもしたので、それを回避するためには大学院に進学するという口実が必要でした。

だから「社会に出て働く」ということに良いイメージを持っていませんでした。体力も神経も削られる大変なことだと思い込んでいた節があります。

まさにそのイメージが大変な状況を引き寄せたとも言えます。

乳がんを経験したことで母の過保護過干渉はエスカレートして「病気に障るからもうアンタは働かなくていい」と今でもいっとります。

だから、やはり自分が子育てしていく上で子どもに「社会に出たら大変なんだから今から我慢を覚えなさい」とか「学生のうちはバイトもせず勉強だけしなさい」

とかは「こういう仕事はあなたには無理だからやめなさい」とか、そういうことはしないでおこうと思っています。

そういった育ち方の上に働きすぎで鬱になったり人間不信になったりが積み重なり、

「もう死ぬまで外で働かなくていいや」となったわけでした。 

 

ブラック旦那、ブラック企業(まあ企業ではなかったからブラック法人か)、毒親のトリプルアタックをによってより深まった「二度と働きたくない」という決意。

それを上回ったのが何かというと「子育て」でした。

 後編につづく。

 

国立大じゃなくてFラン大を無償化しようよ

たまには幼児教育ではなく高等教育について、私の偏った知見をお届けします。

今どのへんまで話が進んでいるかは適当にこのあたりから情報をピックアップ。

univ-journal.jp

 

www.sankei.com

 ま、ちゃんと読んでないけど(笑)

データ読んだりソース集めたりすると話が回りくどくなって全然UPできないと気付いたのでもう、偏見だけでこの先は進みます。

 

 私の中で「大学進学するのが大変な人」で真っ先に思い浮かぶのが社会的養護下にある子どもたちです。虐待や経済的事情などで親の元で暮らすことができず児童養護施設や里親の元で暮らす児童のことです。だからここでも全員を無償化しろ、ということではなく所得制限などはあってもいいという前提です。

 

 私の尊敬する堀江貴文さんやちきりんさんなど多くの方が「やりたいことないのに大学行く必要はない」と言っていて、その影響で私も娘は大学に行かなくてもいいかもなと思うようになりました。これから先はオンラインサロンなどで学んだりネットワーク作った方が有益かもと思うこともあります。

 

 ですが、生活保護世帯の子どもや社会的養護下の子に関しては別です。「やりたいことがはっきりしてるから大学行きたくない」という子まで行く必要はないですが、やりたいことがない、くらいの子は行った方がいいです。なぜならその「やりたいことがない」と思っているのは「思わされている」からで本当は「やりたいことがある」かもしれないからです。「思わされている」というか、過去の経験から「私には大学など行く価値がない」と思いこまされてきた、という方がよいかもしれません。

 

 

なんで国立大じゃなくFランなのか?

「貧しいけど成績優秀」、つまりお金がないことだけが学習機会を奪ってると思われる子どもを、一流に育てることが目的ならば国立大無償化はいいのかもしれません。

ですが、貧困の連鎖を断ち切るのが目的ならば、一番底辺になる可能性のある子たちの底上げをしてあげる必要があるのではないでしょうか?

偏差値50以下の子を想定してみてください。

適当にググってベネッセとかの偏差値ランキングで国立と私立を比較してみるとよくわかります。

 国立大行けるレベルの子は高校でも授業についていくことができている、要するに落ちこぼれていない子であると考えられます。それでも貧困で国立大行くとなると浪人できないわけですから必ず合格できるように2ランクくらい偏差値の低い大学を狙わなければなりません。塾など当然行けません(厳密には今は補助が出たりもする)。となると偏差値50でも実質受けられる大学は沖縄まで行かないとないです。

 それでも偏差値50(まあ人並み、平均?)以上の子なら仮に高卒でもその後の社会で挽回できます。「普通」のことができていれば仕事でもパワハラなどに遭遇しにくいし、ある程度自己肯定感が高いと思われるからです。もちろん、「生活保護を受けている」ことや「施設で暮らしている」ことで「自分は人と違う」という気持ちはあるかもしれませんが、少なくとも学校の先生に「おちこぼれ」とはみなされないでしょう。むしろ「施設暮らしなのに頑張ってるな」なんて言われることもあるかもしれません。

 

 一方で「学習が非常に苦手」な子はどうでしょう。まず家庭で暮らしていた頃から学校に行かせてもらえていなかった、勉強するとかしないとかに関心を持ってもらえなかった、勉強が苦手だったり普通と違うことで暴力を振るわれていた子、家にも学校にも居場所がなく不良仲間の家を転々として過ごしてきた、など様々な状況が想像できます。事実、施設で暮らす子どもたちの中には中高生でも小学校レベルの学習から始めないと理解できない子も少なくはないです。

 そういった勉強そのものに馴染みがない子どもでも今のFラン大学なら合格できるのでは?と思います。よく「名前さえ書けたら合格できる」なんて話を聞きますが、あながち嘘ではないと思いますよ。

とはいえ、このような子どもたちはそれまでの生育歴から「自分は頭が悪いダメ人間であり、大学など行く価値のない人間だ」と思っていたり、仮に意欲はあって進学を進められても私立しか選択肢がないのならあきらめるしかない、就職するしかないのが現状です。お金を出してくれる親はいませんし奨学金なども基本は成績優秀だったりまじめに通うであろうことが想定されないともらえない、借りられないわけですから尻込みするか、打ち切られてドロップアウト、というのも考えられます。

 

でももし、Fラン私立でも学費がタダになったらそういう子たちに挽回するチャンスが生まれます。

今は大学さえ卒業すれば食っていける、という時代ではありません。そういう意味では大学で勉強したらすぐさま貧困から脱して連鎖を断ち切れる、というわけではないでしょう。

 しかし大学において教員や多様な学生と繋がることで、

・お金の使い方

・家族の関係

・働き方

・人への頼り方

などが多様であることを学べます。4年間猶予があることで、自分はどんな仕事に向いているのか考える時間が生まれ、就職先をゆっくり考えることができます(施設出身者は1年以内の離職率が非常に高い)。そういうことを通して自己肯定感をコツコツと積み上げていくことができるのでは?と思います。

 貧困に陥っていると社会資源にアクセスする力が弱いかったり人間関係が乏しくなるという特徴があります。特に生活保護世帯で育った世帯は将来生活保護を利用する可能性が高いなど、貧困の連鎖も懸念されています(施設に入所する理由となる虐待や親のアルコール依存症なども貧困が原因の場合もある)。

 だから大学の無償化するならば、どんなに頑張っても現役だとFラン私立しか合格できない子に学費を出すことで将来貧困から脱する子を増やすことができるんじゃないか?と考えています。そういう子にとってこそ「大卒」であることって意味がある気がします。

 

時間がないのでここでおしまいです。

 

 

 

 

 

 

 

ママ友への乳がんカミングアウト、完全に機を逃した件

私が乳がん治療をしたのはかれこれ7年近く前。34歳の時。子どもが生まれる2年前くらい?

妊娠が分かった頃はまだ髪が生えそろってなくてウィッグ生活だった気がします。

再発するのでは?とかいう不安は全くないので普段病気だったことはほぼ忘れてます。

アメブロを発掘すれば数値とか使った薬なんかも思い出せるのですが、

家にはそれがあるのかどうかもわかりません(汚部屋なもんで)。

今覚えてるのはステージⅡb、エストロゲン弱陽性。

全摘したけど再建はしてない。

抗がん剤はやったけどホルモン療法は拒否。

産後も検診のみで治療なし。

ですが、まあ、これから乳がんになるであろう女性は確実に周りにもいるでしょうから何らかの注意喚起をした方がいいのか?と思いつつ、ガンを経験した後にガン友以外で出会った人にほとんどカミングアウトしたことがありません。それ以前からの知り合いにはわりと言ってますが。

 

今まで「私、乳がんだったんで~」って話したのが、

(1)2年前に勤めてた職場で子宮がんで退職する人がいて、「大丈夫ですよ~。私なんか乳がんだったんすけどまだこんなにピンピンしてますから!」って励ましのつもりで。後から聞いたらガンではなく子宮筋腫だったみたいなので、話が重かったかな?と反省。

 

(2)うちに遊びに来たママ友に。酒飲んで酔ってたしサシだったので。というかその人が乳がん話とトントンくらいの重い境遇だったのでつい励ましのつもりで…。

 

(3)これは身バレしそうですが、パートの面接で。産後に仕事の面接受けに行くの4回目で、3回目までは当然のように隠しましたが、このパート先は前の代表が乳がんでなくなっていたのと、病気を経験したことが「売り」になる職場だったからです。

 

職場に健康診断などでは乳がんのこと「書かないでおきましょうか?」と医者が言ってくれたりするのでそういう書類に書かれることはありません。ま、私の場合非正規だったし長く務めるつもりもなかったので、フルタイムとか長年勤めるつもりならCOした方がいいかもしれません。私のガン友は転職の際、職場内健診で医者に「見なかったことにしてくださいね」と口止め頼んだらなんとかなったらしいですが。

 

こうやってみるとやはり自分の中でうしろめたさとか「ガンの話題って重いな~」と思ってるのがわかります。なんかそれまでの自分にフィルター掛けられるようでいやなんですよね。

加えてママ友、となると子どもが絡むので「もし将来学校で『おまえのかあちゃんおっぱいないんだろ~』ってからかわれたら、子どもも自分も耐えられるだろうか?」という心配がありました。

それでもね、最近はもうフィルター掛けるどころか、今までが「私は病気なんかじゃない。普通の母親なんだ」っていうフィルターを掛けていただけだったんだと気付いたので聞かれたら答えよう、くらいにはなっています。

 

ちなみに今まで赤ちゃんの頃からのママ友に「あの時カミングアウトしとけばよかった~!」と思うポイントが2回ありました。

1回目は児童館にて。まだ0歳児の授乳してた頃。私は混合授乳でしたが児童館や支援センター行くときは哺乳瓶とお湯持参がめんどくさくて、なるべく家で満腹にしてから行ってました。なのであんまり私が授乳する姿を見たことのあるママ友はいないと思います。で、その時見られた、というわけではないのですがたまたま一人が「私の友達が片方だけで授乳してるんだって~」という話題になりました。

よし今だ「実は私もなんだ!」ってCOしよう!と思ったのに口から出た言葉は

「あ~ヤフー知恵袋でそういう話見たことあるよ」でした(-_-;)

いやなんかね、6人くらいで円陣組んでしゃべってて、しかも半数くらいはまだ20代だったので「うわ~乳がんなんかになってる婆とはママ友になれないわ~」と思われるのが怖かったんですよ。子育てしてる最中になった、というのならCOすると思いますが。

 

そんなこんなでもうかCOするのはいいや~と思っていた時期に、小林麻央さんが乳がんのブログを始められました。かなりニュースでも取り上げられたのでこれで「若くても乳がんになる」ということが一般に周知された感がありますよね。

だからもう婆がなる病気だなんて隠す必要はない、次に小林麻央の話題になったらCOしよう!と決めたのにそのポイントが来たはずなのに、、、

結局できませんでした。いやなんか公園にいてさ、あの開放的な空間で話すのに気が引けたんですよねー。。。

 

うん、なんか話せない相手はそこまでの関係で、これ以上深く付き合う必要もない、という一つの線引きなのかもしれませんね。あと、1対1なら話せる気がするけどグループになってたら言いづらい。私は娘にとっていわゆる幼馴染にあたる0歳からのママ友に、多くを求めすぎてるのかもしれません。保育園時代のママ友も今の幼稚園でのママ友ももっと仲良くなりたいと思うような魅力的な人はたくさんいるわけで、だからといって専業主婦だった頃に毎日一緒に児童館やら公園行ってたママ友のような関係になる必要もないんですよね。

結局まだまだ私は軸がブレブレなんだなと思います。

 

でもね、「いや~今日も寒いですよね~」くらいの他愛もない話にどうやって乳がん話を挟むのか?不妊治療の話でさえ人と場所を選ぶので・・・いやそれももうさらけ出したらいいんじゃないか?とか。

だからまずはこうやってネット上で練習することにします。

 

 

 

なるほど、いい夫婦の日はこの人たちのためにあったのか

いい夫婦の日の話題ですが、夫のことは今回書きません。

ブログと一緒にTwitterも更新を始めて2か月。新聞もテレビのニュースも見ない私はそれまで2chまとめで情報を得ていましたが、それがTwitterに代わりました。

今日はいい夫婦の日ということで主に子育て家庭の方をフォローしてるのでまあよくこのネタのTLが数日流れています。

来年くらいになったら私も「夫に感謝☆」みたいなツイートできるかもしれませんが今年はないですな。

 

それより気になったのは「誰に得があるのか?」ということ。

敬老の日とか子どもの日とか母の日父の日など家族の誰かに感謝するようなカレンダーに載るような祝日・記念日ではない。どちらかというと肉の日とかポッキーの日とか納豆の日とか数字の形や語呂合わせ系の記念日ですよね。

せっかくなのでググったらばこんなにいっぱい記念日あるんだねー。

日本の記念日一覧 - Wikipedia

 

私は「なんか盛り上がってるから私も乗っかって盛り上がろー(*'▽')」

っていうのが苦手なのでいや~みんな乗っかってあげてえらいな~と思うんです。

私は「株式会社」とつくようないわゆる一般企業で働いたことがありません。学生の頃ファミレスや弁当屋でバイトしたくらいです。〇〇法人とか非営利ではないけど(非営利もあるけど)モノやサービス売って利益を出すような経験が少ないのでビジネスのことさっぱりなんですが、、、だからこういうのにかこつけてなんかすると経済が回るんだ~みたいなことに行きつかないのかも。

まあ最近は娘が好きそうなことはやるようになったんで、出産前は絶対するもんかと思ってたハロウィンパーティーやらママ友親子とディズニーなんかも娘が喜ぶならと取り入れつつありますが。

でもまあ、いい夫婦の日は娘直接関係ないんで「誰に得があるのか?」という冷めた視線を送ってしまうわけです。夫婦仲もね、うん。それはまた今度。

 

で、「はは~ん、これは電通様だな~?」と推測して、誰かが「電通の陰謀だ!」とか書いてないかな~とググってみました。

いい夫婦の日 電通」「いい夫婦の日 ムカつく」「いい夫婦の日 どうでもいい」等々検索してみたものの、なかなか思うようなことが出てきません。

 

で、一旦Twitterに戻りもう一度「いい夫婦の日」で検索してわかったこと。

電通じゃなくてリクルートだったんだー!!ゼクシィですよ奥さん!

うわー超納得。だってさ、SNSで「夫くんいつもありがと~♡」なんてわんさか流れてきたら独身さんは「いーなー結婚したいな~」ってなるわけじゃん?

なんとなく同棲して数年。結婚に踏み出すようなきっかけもないしな~って時に「11月22日はいい夫婦の日なんだ~。結婚記念日にちょうどよさそうだね。よし、この日に入籍しよう!」ってなるかもしれないじゃん?

そりゃ妄想用婚姻届を付録にしちゃうゼクシィさんですから、この程度のことお手の物ですよね。『いい夫婦の日、おめでとうプロジェクト』なんて冴えてます。

 

世の中の企業論理をわかってる人にとっては当たり前なことかもしれませんが、何度も言うように田舎もんで企業のOLとかやったことのない自分はTwitter始めて色々と勉強になります。

 

Twitter見ててもういっこ「そっかー!この人たちに需要があったんだー!!」と納得したことがあります。

それは腐女子のみなさんです。腐女子だけでなくオタクを生業として作品を作ってる方々といいますか。

自分の推しカプの絡みが何年もなかったり原作が既に終了してたりすると、ネタがだんだんなくなってくるんですよねー。。。でもジャンルにいる限り何かしら描かなきゃ!同じカプ好きの人のために燃料投下しなきゃ!って時に、こういう記念日はものすごく都合がいいんだなと分かりました。ハロウィンがくればキャラにコスプレさせるし、クリスマスが来ればサンタコスさせたりホイップクリーム舐めさせたり、バレンタインもしかり。とにかくイチャイチャする絵を投下することができる。

 

ある意味夫婦もそれを見習うべきなのかもしれません。結婚して何年も経つと刺激もないし毎日毎日同じことの繰り返しで特記するようなこともなくなる。でも待っている人(子ども)や所属ジャンル(家庭・家族)を盛り上げるために率先して記念日を活用する。

 

いい夫婦の日に『夫さん、いつもありがとう💛』って言えない自分、なんかカッコ悪」と思いながらも、一方で「そんなのに乗っかって感謝なんかしないんだからねっ///」というツンデレさも兼ね備えてわけわかんなくなってる自分なのであります。

 

 

 

 

 

娘が幼稚園で収穫したものから稀少性について考えた

あの、

経験とか発達とかそういうことではなく文字通り収穫「物」(一部生き物)のはなしです。

まだ通い始めて半年ちょっとですが、普段生活してたら

スーパーで買わない、栽培しないものも結構あります。

 

直近で覚えてるものから書いてきまーす。

野菜類はほとんど幼稚園の畑で採れたものです(カッコ内は母が家で処理)

落花生(母は人生で初めて茹でたよ)

拾ってきた柚木(ドレッシング作成)

拾ってきた花梨(芳香剤代わりに置いてる)

幼稚園近所のなんとかさん家でじゃがいも掘り(ポテサラ)

同じく〇〇家のブルーベリー(ヨーグルトにinして朝ごはん)

さつまいも(ベーコンと胡麻で炒め物)

園で摘んだ花の花束(花瓶に生けた)

かぼちゃ(かぼちゃポタージュ)

てんとうむし(1週間で没)

かたつむり(2匹存命)

かぶ(味噌汁にin)

道端の雑草(2日に1回ペースでお持ち帰り)

茄子(炒め物にした)

トマト(サラダ)

きゅうり(サラダ)

干し柿&干してない柿(スムージーにin)

ゴーヤ(粉まぶしてチップス)

スナップエンドウ(チーズ乗せオーブン焼)

枝豆(茹でて)

栗(茹でたけど結局食べなかった…)

オタマジャクシ30匹(1週間で全滅)

バッタ(存命。卵いっぱい産んでるので不安(*_*;)

ゴボウだと言い張る長い木の枝(玄関外に放置)

カブトムシ(1日で没)

 

私が子どもだった時代はもう40年近く前だし田舎に住んでたので

小学校の帰り道にスグリやあけびとって食べたり、

川や岸壁や山にいって遊んだりっていうのは当たり前でした。

祖父は漁師だったし、祖母は畑やってたから半分自給自足みたいなもんでしたし。

そういう経験しないとダメ人間になる!なんて言いません。

自然で育っても自分はダメなとこいっぱいあるし

今自分が自然好きか?っていうとそんなことはありません。

インドア派だし暑いの苦手だし昔しょっちゅうハチとか蚊に刺されて腫れたし。

でもそれは経験したから気づいたことだもんなーと思います。

もしかしたら娘はアウトドア派で自然いっぱいの田舎が好きなもしれない。

でも、そういう知らないから選択肢に加わらないのだとしたら…?

ずっと田舎を敬遠していた私でさえ最近は地方に住みたいな~と思うくらいだもんな。

今の時代東京に住んでいたらあえて意図して用意しないと自然に触れる機会がないまま大人になっていくでしょうが、それに対して私は責任が持てないのです。「都会で育つ」ということを自分が経験してないので非常に不安なのです。

ただでさえ私は娘にiPadもFireTVstickもゲームも与えています。自分もそれらが好きだし、子育ての役にも立っています。だけど、それだけになってしまうのはやはり不安があって、バランスをとるために真逆の「自然」というものにこだわっているとも言えます。

毎週末野外活動してプレーパーク行って夏休みも毎年山にキャンプいってるよ!とか毎日幼稚園終わった後自然豊かな森や公園に子ども連れて行ってます!という人はそこまで幼稚園の保育内容にこだわらなくてもある程度自然に触れられるでしょう。

でもよっぽど親がアウトドア派でなければ難しいですよね。泥だけになると不快だし、水たまりに入ったら冷たいし、土がついたままのものが美味しくない。寒いのも暑いのも嫌ってことを大概の大人は経験上知っているから。

 

昔(ジジババ世代)は学校や幼稚園で勉強を教えてもらうことはレアでした。

そりゃちょっと前まで戦争してたし国全体が今とは比較にならないくらい貧困だったんだもん、そうですよ。

お金持ちの人とか都会に住んでる人だけの特権みたいなもので

「先生」という偉くてなんでも知ってる人に知識を分けてもらうことがとってもありがたいことだったでしょう。

一方で「道草食って野山を駆け巡り、危険もあるけど体を使って知恵を絞って遊ぶ」なんてことは誰にでもできることだから価値はありませんでした。

今はネットもあるし先生は万能じゃないってこと子どももわかっちゃってるし仮に学校や幼稚園が勉強を教えてくれなくても、タダで知識を得ることはできるし(ネットでも図書館でも)、塾や習い事でもっと高等なものに触れることもできる。

となると、就学前に「ひたすら自然で遊ぶこと」ってのが実はものすごくレアで贅沢なことなんじゃなかろうか?

どんなに早期教育・英才教育を掲げている幼稚園に行ったってそこだけじゃ私立国立受験しても受からんからみんな幼児教室行くでしょ?だったらいっそ自然体験

とか遊び中心の幼稚園選んだ方が希少性が高いんじゃないかな。

 

何十年後は「私、森のようちえん通ってたんだ~」ってのが「私〇〇の付属幼稚園通ってたの~」というより自慢になる時代かもよ!?

 遊んでばかりしたら社会のルールや人間関係のマナーが学べずダメな子になるとか、小学校の勉強についていけない、座って先生のお話を聞ける子にならないとか、早く始めた方が他の子に差をつけられるとか思ってますかね?

そんなことは気にする必要がないんだなこれが。それはまたいずれ書きます。