何者でもない自分の記録

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自分の感覚を信じられるか?

本のレビューはじめて2~3か月?

時々、夫の書棚から課題図書としてピックアップすることもあるのだが(普段読まない本も時々織り交ぜた方がいいらしい)、

まあ難しい本はさ、読み手の自分の知識不足もあるからアウトプットはともかく一応全部読もうとは思うんだ。眠くなるから進まなくて時間かかるけど。

 

でも自分で選んだ本は専門書ではなくエッセイ風の自己啓発書だったり実用書とかビジネス書のジャンルなので

「うわー、この人とは合わないわ」

「この立場にいてこれ言うかね?」とか

とにかくもう本能的にというか直感的に?無理だわ、という本にも出くわす。

”〇〇さんが書いた本”って事さえ忘れれば読める本もある。Nさんの本などはそれで、”N氏が書いた”というつもりで読むと「そうはいってもキミ、Nさんだしねぇ」という気持ちになるけどそういう思い込みをなくせば読める。

先日読んだ某インフルエンサーさんの本は正直ドン引きした。文章が稚拙とか言ってることが間違ってるとかではなく、私自身がなるべくネガティブ要素を取り入れないようにしてるのに、まさかそんな形で降りかかるとは、という意味で。私の中ではインフルエンサーの発信は為になる言葉で構成されていて箸にも棒にも引っかからない愚痴なぞとりわけ書籍では言わないだろうという思い込みがあったせいでもある。

それでもまあ本人のあり方を否定するようなレビューを書くことは本意ではないのでとにかく得たものと冷静な分析のみでなんとかやりすごせた。幸い1時間もあれば読める内容だったし。

 

でも、昨日読んだ本はついに読み終えることすら拒否したいと思った。

読んでて怒りを覚えるとか言うほどでもないし、むしろ非常に論理的で役に立ちそうな内容なのに序文でもう”あれ?なんか違う”と感じた。

エビデンスのない本もいくらでも読んでるし、読み手を煽り立てるけど読み終わってみると自分には応用できない、なんて本もたくさんあるけど、そういうのとも異なる違和感。でもAmazonのレビューみるとみんな大絶賛で☆1と☆3が1件で、あとは4~5なので、本が悪いわけじゃないんだろうけどでもやっぱり解せないという想いが強く、これは実用したくないと感じた。

 

旧タイプの私なら「それでもみんなが評価してるなら間違ってるのは私。だから受け入れられなくても実践しなきゃ!」と思ってた。自分に思い込ませてた。

あ、今思い出したけど、ある本の内容が前は全く響かなかったのに今はスラスラと入ってくるようになった、とか同じこと言ってるのに頭と体に入ってくる感じ方が全然違う本があるのは自分と著者の波動が似てるかどうかなんじゃないかと思ったことがあるのだが、それについてシュタイナーのヒーラーさんに聞いたら、波動ではなくタイミングだと言われたことがあった。

で、”視える”人が言うのだから間違いない!と今まで思ってたけど、もしかしたらそれだって違うのかもしれないな。網様体賦活系RASあたりが関係してる気がしてきた。集合無意識、みたいなもの。

 

例えば。

「男女平等」であることは必要、大事!と私は思っている。でも、「女性が現代日本の男性並みに働くこと」や「家事や育児の分担を家庭内で半々にする」ことが男女平等ではないと思っている。なので「こうすれば男女平等になるよ!」と紹介している本の内容が上記のような内容だったら、やっぱり「う~ん、そうじゃないんだよな~」ってなると思う。

だから、そこから「私は違うと思う!だって私はこういう考えだから~で~というのが望ましいと思う」と言えればそれでいいんだろうけど、

「こんなレビューを書かれて傷ついた!」「おまえは本をちゃんと読んだのか!?そんなことは言ってないぞ」「あなたの考え方は間違っている」とか反論された時に自分が耐えられるか自信がないってだけなのかもしれない。

しかも、そういう考えがはっきりしてるならまだしも「直感」「なんとなくの違和感」だから説明も難しい。そこをおしてまで全て読み込んで判断材料を増やす気にもならない。

でも私はまだケチな部分が残ってるから「読んだのにレビューとしてアウトプットできないなんて(読んだ時間が)もったいない!」とも思ってしまう。だからこの違和感はレビュー書けなくても書いときたいと思ったわけ。

なんともめんどくさい人間だ。

 

昨日読んだ本は子育て関係の本だけど、スピに関することって思い込みとか個人の感覚に依存する部分がもっと大きいのでさらに言語化が難しい。

 

これも昨日の出来事だけど、「A:吸い取る施術」と「B:流す施術」は使い分けられないのでBを極めた人はAの施術をするのに向いてない、という話になった。だが私はAをやってもらった後にいつもと違う感覚があったので不思議に思ったらAの後にBをされてた、ってことがあったのでそれを言ってみたのだけど結論としてAとBは切り替えできない、という話で終わった。「私のも感覚だけどあなたの意見も感覚に依存してるからどちらが正解とは言い切れない」なんて私には言えないっす。

自分の感覚の違いは本当なのか?ということと、それをいかに言語化して誰かに伝えるか?ということの難しさを感じた。問題はその感覚の持つ意味を自分でわかっていないからなのかもしれないなー。

その違和感が持つ意味はなんなのか?自分の知識とはかけ離れすぎていて拒絶反応を示しているだけのか?逆に今まで蓄積された知識のどれかが「それは違う(あなたの主義と異なる)」と感覚を使ってアピールしているのか?

そういうことがわかればいいのだけれどなあ、と思ったのであった。スピでよく言う「ワクワク」か「ザワザワ」か?ホントにそういう感覚になっちゃうんだけど、それに頼る=自分の感覚を信じるってことなんじゃないか。で、その”「ワクワク」か「ザワザワ」か?で選ぶ”ことにワクワクするか、ザワザワするか?そこまで考えててみた。

やっぱり怒りやザワザワは体にも心にも持ち込みたくないから嫌な本は嫌だけど、嫌と感じた気持ちをそのままにしとくのはやっぱりザワザワかもな。だから愚痴ロンダリングしてポジティブな言葉に置き換えられればいいのだけど、それじゃあ伝わらないこともあって・・・・うわーーーーん!わからん!

直感も大事だけどやっぱり思考も大事!以上!