何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

仕事やSNSを始めたら10年近く時が止まってたことを痛感する

ここ最近

「あ~ようやくこのことが世間的に知られるようになったんだな~」と思うことをいくつか立て続けに目にした。

 

popbisco.hateblo.jp

 この記事も関連する話だけど。

仮にそれが”男性の育児参加”ってことだとする。

 

そもそも”育児参加”ってのが古いんすよ。本来夫婦協働でやるべきことを参加なんて呼んでる時点でねえ。せめて参画でしょ。なーんてことがいまだに言われてますが、これもすでに15年位前にはあった話。それよりもっと前の1999年、安室奈美恵の夫であったSAMさんが厚労省のポスターに出て「育児をしない男を、父とは呼ばない。」なんてキャッチコピーがあったりした。それに比べればイクメンなんて言葉もうまれ、育児休業取得する人も増えたし土日に公園なんかいったらパパしかいないんじゃね?って状況で万年ワンオペ育児の私には居心地悪いくらい。

といっても人事で仕事してる人に聞くと単なる有給であっても小さい子がいる男性には「1日でいいから育児休暇という名目で休んでくれ」と頼むこともあるらしく、わが社は育休〇%です!なんて言ってても内実はもっと低いという問題もあったりしますが。加えてTwitterに出入りするようになっていかに育児しない夫にストレスを抱える女性が多いかって目の当たりにすると20年たっても構造はほとんど変わってないってことも言えたりする。

 

ま、私が「あ~ようやくこのことが世間的に知られるようになったんだな~」と思ったのは男性の育児参加のことではないですが例えばの話。

要するに、世間的に認知されてからその問題がなくなるまでに20年以上かかるってこと。

 

なんだけど、私が言いたかったのはそういうことでもなく、たぶん私が

「今ようやくこの問題が日の目に・・・!」って思ってることって実はもう何年も前に発見されてたんだろうなということ。ただ単に

・鬱で引きこもり専業主婦

・それまでの仕事に関わるような情報は一切シャットアウト!

・SNSには近づかない。情報源は2chまとめのみ!

・乳がん治療!

・妊娠・出産・育児!

という社会と接点を持たない生活を10年近く送ってたので気づかなかっただけなんだと思う。イクメンだって言葉は知ってたけど

育児しないメンかつ色々と問題ありの夫しか身近にいない私にとっては

 都市伝説に近いもので

一部の変わり者だけの話だと思ってた(育休とったという知り合いがかなりの変わり者だったから)。だから娘とある程度外に出るようになって児童館や公園行ったら「イクメンごっそりおるやん!」てびっくりしたのだ。

育児中だから子どもに関係するトピックならまだ入ってくる状況の中でこれだから、その他のことは本当に浦島太郎状態。テレビも娘に占領されるようになってからは朝のニュースすらみなくなったし。

 

問題視されてから20年以上かかるってのも事実だし、専業主婦とりわけ育児中の主婦は社会との接点が減り情報も偏るので起きていることをありのままに認識できないってのも事実だと思う。いやね、いかにして母乳を増やすか?とか半径10キロ内で授乳室のある場所、とかの情報は半端なく詳しいんだけど、それだってすぐにアップデートされるからねー。

 

 

大学入学した1996年からインターネットを始め、ネットでの情報収集は好きで結構やってきた方だと思う。もちろんその時ハマってることだけ収集するので偏りは大きいが。でも10年のブランクがあって、今ようやくSNSに入り浸るようになってその情報量の多さに結構身動き取れなくなってきたな~とも感じる。だからむしろ今まで避けてた本を読む、という方に移行してるのかもしれない。マジで、江戸時代なら情報を得ている量ダントツだろうな自分。でも今2018年現在でいうと中の下?それとも中の中?そんなもんだろうな。

 

仕事を始めたりSNSを始めて色んなものを取り戻し始めてて「私はマイナスになんてなってない!」と自信を持つことも増えたんだけど、マイナスからゼロに戻すだけじゃ・・・2008年ならなんとかなったけど2018年にはゼロにすらなってないんだなと痛感している。そして情報の偏り、不十分さがひらめきや直感に影響している。つまり、ひらめいた!ピコーン!ってなったと思ったことが全くの的外れってことが最近多くて、ニッチなテーマを探すのが自分の得意分野だったけどなかなかたどり着かないわこりゃ。

 

先日読んだ茂木先生の本に、直感は鍛えることができるってことが書いてあって、リラックス(弛緩)と集中(緊張)を繰り返すとよいのだそう。最近インプットしたらアウトプット!!ってことにガチガチになってて頭がずーっと緊張状態なので、しばらくお笑いとか海外ドラマとか漫画とかお勉強系以外のことしたり、久々に瞑想したりあとはアクセスバーズ受けに行ったりして弛緩の状態も作らないといかんなと思いました。

 

 

子どもに我慢させないために、大人は我慢が必要という矛盾

昨日は行きつけの親子カフェにひと月ぶりくらいに行った。

娘は滑り台などがあるプレイエリアには行かずポケモンの図鑑を書棚から引っ張り出してきて「これなんて読むのー?」といちいち聞いてくるので(まだカタカナが読めない)

「これじゃあお金払って来る意味ないじゃん」と思いながら過ごす。親子カフェは時間制なので30分400円とか取られるわけでせっかくならスタッフさんやその場にいる子に遊んでもらって私はゆっくり仕事か読書をしたいのですが。

30分くらいして同じくらいの年齢の子が来店すると、図鑑をほっぽりだしてプレイエリアにダッシュする娘。共感性が高く人と遊ぶのが大好きなので初対面の子ともよく仲良くなっている。そういうところは伸ばしていけるといいなと思う。

 

しかし子どもが二人よれば当然もめごとが起きる。娘が先に確保していたままごとのおもちゃを遊んでたお友達にとられた模様。暴力がなければなるべく子ども同士のやり取りには介入したくないのですが、相手方はママが出てきて「あなたの方がお姉さんなんだから返しなさい!」とかやってその子は嫌だと泣いて・・・娘も珍しく「私が先に使ってた」と引かず膠着状態に。

 

 

この前ちょうど大好きなちきりんさんがゲストのラジオで、日本人は我慢を美徳として過ごしてきたからひどいことされても怒らずにじっと耐えている、もう我慢やめますか?それとも人間やめますか?くらいのコピーライトを打って我慢をしない教育をした方がよい、という旨のお話をされていて上記ツイートに繋がった。

娘はどちらかというと我慢強いというか、私が言いくるめれば身を引くタイプなのだが、大人になった時に私のように自己主張できない人間にしてしまわないためにはぐっとこらえる必要があるのだ。矛盾するようだけど子どもを我慢させないためには大人はあれこれ手出し口出ししたい気持ちや「相手にひどい親だと思われるかもしれない」という人の目を気にすることを我慢しなければならないと思うのだった。

 

結局どうしたかというと、注目してた料理が届いたので「ご飯にする?」ときいたけど取り返すまで食べない、というのでじゃあどうする?相手の子になんていう?相手の子が返してくれるまで待つ?とかそういうことを聞いたら 返してもらうまで待つというので(「ママなんとかして!」とかは言われなかった)わかった、じゃあそうして。ママはお席で待ってるね~と。

結局相手の子が折れて返してくれたんだけど、それを(相手の子を)私が褒めたら娘も「いいよ貸してあげる」とすぐに貸していた。。。娘は私に褒められたい欲求が強いので相手の子が褒められたのを見て「貸してあげたらママが褒めてくれる」と悟ったのだ。これはちょっと失敗。娘を我慢させないってだけでなく相手の我慢も褒めない、ってことも必要らしい。。。

 

私はEテレのすくすく子育てを録画してよく見ている。娘が大きくなってきて自分の子育てに応用できるテーマは減ったけど、コメンテーターの先生方(医師、大学教員、保育園長など)の見解が秀逸なので、人へのアドバイスの仕方や人の悩みの受け止め方などの参考にもなるので(あと子どもが出ている番組は娘もくぎ付けになるので)毎回録画している。もう2年前に放送された下記の回が波紋を呼んだことを昨日の出来事で思い出した。

www.sukusuku.com

 

こんな感想が発掘されました。

井桁先生は必ずしも「かして」に「いいよ」と言えなくてもいいということをおっしゃっている。幼児番組のいないいないばあやこどもちゃれんじのしまじろう教材などでは「かして」「いいよ」が推奨されているため児童館などに行っても勝手におもちゃを取るのではなく「貸して」を言う、言われた方は「いいよ」と渡す、というある種のテンプレ的お約束を否定した。しかし大多数の親は「「いいよ」と貸してあげなくてもいいということはわかった。だがみんながみんなこの番組を見ているわけでもないし明日から貸さないっていうのは相手の子のママにどう思われるか不安」という思いを抱える。特に未就園児の場合必ず親が付いて回るからね。

そんなことも見越して大豆生田先生は

実際には「おもちゃを貸さないなんて、どんなしつけをしているんだ」と他のママに思われることがあると思います。そのようなときは、親同士で「申し訳ない」という気持ちを伝えるようにしてください。親同士の関係もとても大切です。

とおっしゃっていた。

これもすごく大事な視点だと思うのだ。子どもにとって本当に大切なものが阻害されてるとしたら、それは多くの場合親の世間体を気にする姿勢なのだということがよくわかる。

しかし、気づくとこまではできても角を立てずに見守るって実際ものすごく難しいのだ。

「ごめんなさいね~うちの子わがままで言い出したら聞かないから」

「昨日すくすく子育てでかさなくていいって言ってたからそうすることにしたんです~」

・・・

私はコミュ力が低いのでどう言えば親同士の関係を良好に保てるかがわかりません。

だからもう、角を立てるしかないのかもしれません。

先日ママ友会でAちゃんがBちゃんの持ち物を取った。Aちゃんのママはたまたまそこにいなかった。BちゃんはAちゃんのものとわかっているけど欲しくて取った。Aちゃんはその場にいたBちゃんパパに「ねえ!Bちゃんが私の大事な〇〇を取って返してくれないの。これをなくすとおじいちゃんに怒られるの。だから早くBちゃんのこと叱ってよ!」と言っていて思わず吹き出してしまった。Aちゃんママがどんな人かは知ってるが、私が思うにママの影響ではなく幼稚園の影響だ。AちゃんとBちゃんは同じ幼稚園でいつも同じようなケンカをしているらしいが、幼稚園ではいつも保育者が介入して取った子を叱っているのだろうし、それも良かれと思ってというよりは保護者のメンツを保つためなのだと思う。ちなみに取り返したAちゃんはその後別の子に配っていたのでおじいちゃんに叱られるという話も方便かもしれないし、Bちゃんもくれないからほしかっただけでそのものが凄く必要だったわけでもない。

娘の幼稚園ではよっぽどの暴力などがなるべくそういう場面は保育者が見守りながら子ども同士で解決するようにしてくれている。だからこそ前はしぶしぶ貸したくないものも我慢して貸していた娘が最近は「今は貸したくない」と言えるようになったのだと思う。

何が言いたいかというと、保育者にしても保護者にしても「子育ち」に大事なことよりも自分の体裁の方が優先されるところをなんとかしないとやはりこれからの時代を生きる力は身につかないし、そのためにはもう角をがんがんに立てていくしかないのかもしれない。怖いけどね。

 

 

親子カフェの話に戻るが、娘とお友達はその後ヒーローか何かになりきって遊んだ。

「私がいちばん強い!」というお友達。それに対して

「私はにばん!」という。そのお友達は

「私『だけが』いちばん!」といって二番目の存在すら認めたくない様子。

勝気な子ってそういうもので、だからこそ人に負けないように努力するようになるのかもしれない。

一方娘はにばんめでもいい、と言える子だ。ひとつ年上のその子の方がお姉さんだということもわかった振舞いをしていて4歳にして年功序列をわきまえている(笑)

ホントはすごく負けず嫌いなのに忖度してしまう面がある。

遺伝なのか環境なのか私と本当によく似てるなと思う部分が多くて将来の生きづらさを心配してしまう。でもそれすらもやはり課題の分離ができていない証拠かもしれない。私に似ていようとも娘は娘。苦労するかもしれないししないかもしれない。あるがままに認めるって難しいね。

 

 

 

 

 

ちきりん氏、コイケダハヤト氏電子書籍レビュー

 電子書籍は読書メーター以外で。オンラインサロン(Facebook)だと流れて行って行方不明になるのでブログが一番いいかも?ってことで読み終わった2冊のレビュー。

「Chikirinの日記」の育て方

「Chikirinの日記」の育て方

 

 

特に気に入ったところのまとめ(引用)

・学歴や職歴、年齢や立場など、書き手個人に関する情報は、「私が考えたこと」(=メッセージ)を伝えるために役立たないばかりか、むしろ邪魔になります。
・「誰も読まないという前提で紙に日記を書き続ける」ことより、「誰が読んでも不思議ではないという前提で、ネット上に日記を公開する」ことのほうが、リスクが少ないとさえ感じました。"
・時々「ちきりんさんは、ブログネタをどうやって見つけているのですか?」と問われるのですが、私の場合は「日記を書くためにネタを探す」という発想はありません。

・「オンラインでもオフラインでも同じように言動する」という一貫性
ネット上で活動する人には誰でも、180度異なる二つの選択肢が与えられているのです。それは、「有名人をネタにして自分の人気を上げる。その代り、その人とリアルな関係を持つことは諦める」という道と、「肯定的な思いを積極的に伝えることで、リアルに関わりが持てるチャンスを高める」という道です。 ここでは想像しやすいように“有名人”と書きましたが、実際には相手が有名だろうと無名だろうと(フォロアーの数やブログ読者の数にも)関わらず、同じことが起こります。

引用ここまで。


一時的な金儲けやアクセス稼ぎに振り回されるのではなくぶれない自分の軸を持ってコツコツ続けること。遠回りなように見えても結果として自己実現には近道なのだとよくわかった。お金を儲けることや承認欲求を満たすことは結果であり目的ではない(あ、これはちきりんさんが言ってたのではなく何かをネットで発信すること全般の話)。
TwitterやFacebookを始めて(あとNewspicksとかも)どこに勤めてるか、どんな職種職階か、今何歳で子どもが何人いるか、どんな資格を持っているか、等々でいかにプロフィールが飾られてるか。それらにアイデンティティや愛着がなかったり自分を表すのに的確ではなかったりしてどこまで開示するか?ってことは常に悩んでいる。例えば乳がんでさえ、なったことは事実だが今の自分を構成する割合としては小さい。ネット上の乳がんのコミュニティにも付き合いで参加したことあるが、居場所とは思えなかった。

顔も本名も過去の職歴も公式には非公開のちきりんさんのスタンスは私にとって大きな励みになる。もちろん真似してなれるわけではないが、目先の利益に捕らわれずに肩書は手放して自分の発信する言葉によって自分がどんな人間かを形作っていこうと思う。そういいつつもこのブログ、アラフォーとか母とか入ってるけどねー(^.^;

 

 

まだイケハヤで消耗してるの?専門を備えるだけで人生はうまくいく (源闘舎新書)

まだイケハヤで消耗してるの?専門を備えるだけで人生はうまくいく (源闘舎新書)

 

 本家のイケダハヤト氏を知ったのは最近のことである。Twitterにいると信者にもアンチにもお目にかかる。
著者はこのイケダハヤト氏をパロディとして題材にしている。称賛なのかはたまた批判なのか?
イケハヤ氏をよく知るには手っ取り早いかなと手に取ったが(kindle unlimitedの対象だった)、
煽っているのは序文と末尾のみで、それもイケハヤ氏を正確に表しているのかどうかの判断にはつながらなかった。よく知っている人ならピンと来るのかもしれない。
本文の内容についてはわりとカッチリと専門家起業についてまとめられていて至極正攻法。ま、起業してないからただの印象ですが。これからはいくつかの専門性を掛け合わせることで100万人に一人を目指すのがよい、なんてことも言われてるので(落合陽一氏や藤原和博氏など)方向性は同じではないかな。
そういう意味では起業を目指す、すでにしている人にとってはイケハヤ氏のオンラインサロンに入るより場合によっては有益な内容かもしれない(入ったことないけど)。unlimitedなら実質無料だし。
つまりこの著者も含めてインフルエンサーに振り回されず、
自分の強みで勝負すればそっちの方が実は成功への近道かもしれないと思った次第でございます。

個性を知るには自分の屍を乗り越える覚悟が必要

自分の個性ってなんだろう?って考えたりしないっすか?

私は常に考える。「私って〇〇な人だから~」とかいう〇〇の部分が思いつかない。短くまとめられない。自分がどんな人か?肩書とか抜きだと説明ができない。

 だから個性について書かれているような本もよく読む。

 

先日もぎけんさんのこちらの本を読んだ。

すベての悩みは脳がつくり出す (ワニブックスPLUS新書)

すベての悩みは脳がつくり出す (ワニブックスPLUS新書)

 

 

私の読む本はスピリチュアルや自己啓発が多いので個性が題材になっていることは多いが、今回の本でも個性について書かれていた。テーマが「悩み」だからかな。

その一部を引用しながら思ったことをまとめてみる。

 

科学的に見ても、「個性」に優劣はありません。社会や学校で認められやすい個性、わかりやすい個性、そうではない個性といった違いがあるだけです。私たち一人ひとりの個性は、どれもが正解だといえるでしょう。

(中略)

あなたも、自分は自分であるという個性を受け入れ、ぜひ自分のことを好きになってください。

「自分の個性を受け入れること」そして「自分という存在を好きになること」は脳科学から見ても、人生最大の課題なのです。

 

 また、その次のトピックでは自信の持ち方について回答していて、”他人と自分を比較することは自信を失う大きな原因となる”ことが述べられている。

この文はわりと前半部分にあったのだが、 

そうだよね~。学校なんかで「個性を大事に!」っていう場合、それって会社(労働)にとって役に立つ個性のことを指していたりして(平野啓一郎氏の本にもそんなこと書かれてた気がする)、そうでないものは努力不足だとかしつけがなってないとか社会のルールを守ってないと言われ個性として扱われないことすらあるんだよな~なんて思いながら読んだ。

ちなみに最近自分の中では、個性は何か突出したものがあることではなく、凸凹の形が人によって違うこと。レーダーチャートの形が大きい方が優れてるとか価値があるというわけでなはい。みんな形が違う。ただそれだけのこと、という結論になった。

レーダーチャート てこういうやつね

 

しかしこの引用部分だけ見れば、まるでスピリチュアル重視な自己啓発っぽくて不思議。

自己肯定感の低い者にとってはこの「自分を好きになる」ことが、それこそ人生の最大の課題。

昨日だってママ友会でそれを痛感してきた。コミュ力がないことが自信のなさの原因の一つなのだが(もっとたくさんあるうちの一つ)、1年前とかに比べれば会話が下手だろうと気が利かなかろうと時々ポツンと一人になろうと気にならなくなってきたし、帰りには「来てよかったな~またみんなと会いたいな~」なんて思うんだけど、家について落ち着くととたんに不安感や胸のモヤモヤに支配される。一人反省会が頭の中で行われる。

 

 

本の内容に戻ると、1問1答方式で書かれた本なので興味ないところは飛ばして読みましたが、後半いっちばーん最後になってまた個性がトピックになります。

脳科学から見れば、自分の個性を知りたいと願うなら、他人と出会わなくてはならないといえます。

人間の個性は、他人との出会いによってつくられ、他人を鏡とすることで磨かれていくものです。

個性形成の最大要因は、やはり社会的ネットワークなのでしょう。つまり人々とのコミュニケーションです。

(中略)

あなたの個性がどんなものであっても、この世にたったひとつしかないその個性を、愛おしんで、大切にしてください。

 前半部分では自分の個性を個性として受け止めよう、と前向きになれたのに、これを読んで絶望に近いものを感じた。そうか、個性を知るにも人と関わらなくてはならないのか、と。例えばアドラーは人の悩みは全て人間関係に起因すると言っていて、茂木氏が言ってることもそういうことなんだとは思うのだ。

自分に自信を持つためには人と比べない生き方をしなくてはならない。でも、自信をつけるために自分の個性を受け入れなくてはならなくてそのために個性を何か?をより深く知ろうとすると、人と比べるかもしれない環境にやはり身を置かなければならないということなのだ。人と交わって何度も傷つき自信を失いそれでようやく自分が何者かがわかるということが、私には非常に荷が重いプロセスなのだ。他者という鏡を通さないと自分の姿は見えないなんて!

もちろんリアルに人と接点を持つのでなく、家に引きこもっていても社会的ネットワークを持つことは可能である。とはいえ私はネット上でもようやく発信をはじめたとはいえ、まだまだ打たれ弱い。

私自身それをわかった上で3か月前から再始動した。そうしないと本当の幸せにはたどり着けないと。でもこれを読んでわかったのは

誰とも関わらずどこにも行かずコミュニケーションも取らずネットワークも築かなくとも、あなたの個性は十分価値がある

と誰かに言ってほしかったんだなあと。誰かに人と関わらなくても個性を活かせる道はあるよ!と言われたかったんだなあとしみじみ思った。

 

それが逃げ道なのかどうかはわからないが。

 

 

家庭の方針の違いと格差は共存しうるのか?

 ”お金の教育”の一環で最近娘に財布(親戚からもらったお小遣いなどが資源)を持たせて買い物をしているが、先日自分で買ったぬいぐるみをえらいかわいがってて、今朝も櫛で毛並みを整えてあげていた。それを微笑ましく眺めながら

「私は一度もぬいぐるみを買ってもらったことがないな~」と

想いを馳せていた。唯一持ってたぬいぐるみは入院中に近所のおばちゃんがお見舞いにくれたもの。

超合理的な考えの母親だったので親の視点から役に立たないもの、勉強に使えないものなどは買ってもらえなかった。衣食住だってあればよい、という考え。勉強机のような家で使うものもそうだし、裁縫箱だとか習字道具のように学校で使うものも兄や親戚からのおさがりがあるものは絶対に買ってもらえなかった。それ以外でもピアノ教室のクリスマス会のプレゼントも他の子たちは恐らく1000円はする貯金箱やマグカップを差し出してる中、うちは「子ども同士のプレゼント交換なんだから安いもので!」と鉛筆2本とか。で当たった子にはブーブー言われる。

両親ともに公務員だったので決して貧乏ではなく、田舎には大企業のエリートの子も医者の子もいなかったので経済事情は他の子よりもむしろ上だったと思う。事実、小学校区ではうちほど教育に投資した家はないだろうし、中学校区でようやくちらほらいるくらい。私はそれを逆手にとって高校から進学校に行くことで家を出ることができたんだが。

 

今となっては

タマ&フレンズ?うちのタマ知りませんか??

なんて誰も持ってないし(裁縫箱がそのキャラクターので統一されてたがうちだけおさがりで違った)、ランドセルとかそういう学校用の道具が女の子でも黒(兄のおさがりは黒が多かったが以下略)ってのはよくあるが当時は死活問題だった。あとは友達の家へのお泊り禁止とか友達同士でお祭りに行くの禁止とか、モノだけでなく家庭のルールや生活習慣などがみんなと違うことも長いことコンプレックスだった。

毒親ってほどではないのかもしれないが、娘には私のような想いをさせたくないなあという事柄は山のようにある。

 

大学で上京してから今まで東京に住んでて良かったと思うことは、単に親との距離があるということではなく、都会ではそんな風に周りとは方針が違う家庭でも肩身が狭い思いをしなくていいってこと。

私が通った大学は私立女子大で、私のような田舎もんもいれば帰国子女もいるし高校まで公立の子も小学校からエスカレーター式の女子高に通ってたお嬢様も浪人生も仮面浪人もいた。裕福なのに「欲しいものはバイトして買いなさい」という方針のもとで育った子もいれば、大学生になっても「バイトなんてとんでもない」という家庭の子もいる。東北生まれもいればモロッコ生まれもいる。高級住宅街に住んでいるのに家庭の方針でテレビや電子レンジがない、という家庭の子もいる。門限18:00で男の子とは連絡取っちゃいけません、ていう家の子と門限なしで彼氏も実家に出入りしてOKみたいな子が友達として遊んでも、どっちもそれが責められることがない。田舎ではまず、そこまで環境が違うと友達として共存できない。

まあ、私個人のタイプ的に女子大という場所が居心地いいかというとそんなことはなかったが、みんなと同じことができない持ってないことが致命傷だった自分にとっては、みんなとお金の使い方も時間の使い方も違っても一緒に過ごせる、っていうのはすごいカルチャーショックだった。

 東京の良いところはなんでもモノが揃っているということではなく、そういう家庭ごとの方針が違ってもそれが人間関係にさして影響しないし干渉もされないことだと思っている。だから私が娘を自分の子ども時代と全く同じように制限したとしてももしかしたらそこまでの生きづらさは感じないのかもしれないな~。ま、しないつもりだけど。

 

 そんなことを空想しながら朝ごはん用意してたら先日Twitterで流れてきたニュース記事を思い出した。

headlines.yahoo.co.jp

ハロウィンなんかもそうなんだけど振袖とか袴とかも親同士のマウンティングだったりある種の着せ替え人形的な要素も大きい気がする。貸衣裳屋も写真屋も髪セットする美容院も相当煽ってるんだろうなーとも思ったり。でも

「みんなが同じ格好を基本にすれば家庭の格差が表れない」として5、6年生への制服導入を提案

 なんて一文を見てなんだかなーと。それならもう”式典は学校ジャージで出席するものである”っていうしきたりに書き換えて親も教員も来賓も正装しない方がいいんじゃない?親もさ、そこまで着物や袴やドレスに思い入れあるわけでもなく、卒業式=晴れ姿=写真映えする格好!ってなってるだけで制服導入もどっちも思考停止してると思うんだ。

もう、ぜったい人と被らない100通りの貸衣装を学校が用意してさそれぞれ子どもに選ばせるのでもいいよ。制服なんていう時代に逆行するようなもん取り入れるくらいなら。

というかさ、なんで京都大学の卒業式みたいな発想にどこもならないんだろうな~と思った

kyodai.360-degrees.jp

 

 

こういう独自路線を行くことの方がお金をかけてもかけなくてもよっぽど思い出になるんじゃないかなーと思ったり。でも。

 そこで気づいたんだけど。

京大ってきっとそんなに格差ないんだよな・・・。東大が金持ちばっかりってのは有名な話だから京大もそんなに変わらないと推測ができる。

私がカルチャーショックを受けた自分の母校だって「そこそこ偏差値の高い私立の女子大」という時点で、おそらく生活保護世帯や地方のあまり裕福でない家庭の子はその土俵に乗ってないんだよな。

それを突き詰めて行ったら、公立小学校ですら今の日本の階層?をそのまま反映させたところなんてないんじゃないか?って気がしてきたのだ。

今年春には公立小がアルマーニの制服を導入するというニュースが話題になりました。

www.huffingtonpost.jp

これ、もし都内でもA区だったらこんな突飛なことも起きないんだけど、じゃあA区の小学校には超大金持ちのお子さんが通っているかというと仮にA区に住んでたとしても私立を選ぶんじゃないかな~。そうすると超大金持ちと生活保護世帯や低所得層が共存するっていう場面自体が都会ではないんじゃなかろうか。

私は合理的でないと親が判断したモノを買ってもらえない家で育ったけれど貧乏ではなかったゆえに、うちだけでなくモノを”買えない”のではなく選択的に”買わない”家庭があることを大人になってから知ることができたが、実家の向かいに住む生活保護世帯の子ども(今は大人)はおそらくそういう世界があることも知らず生活保護が必要なくなった今も安い賃金すら親に搾取され続けている。一方で私自身も超大金持ちの人たちがどんな学校生活を送っているかなんて花より男子(ドラマ化されてる漫画)を見て想像するくらいしかない。

これは経済的格差だけのことではない。

もう20年近く前に「世界がもし100人の村だったら」っていうチェーンメールまがいのものが流行った。

世界がもし100人の村だったら

”日本”のかつ”学校”だから年齢やある程度の人種・宗教は限られるものの、障害の有無や男女の比率、経済状況などは公立の学校、なんなら幼稚園でさえ反映されてないと感じる。これから幼児教育の無償化が始まればおそらく公立幼稚園は障害児や発達に心配のある子が多くを占めるようになると私は推測している(いずれまとめる予定)。ひとり親家庭に関して言うと圧倒的に保育園が多いだろうし。

今色んな大学が入試で男女差別していたことが話題になっているが、私が通っていた公立高校は男女で入学定員に差があって男女比200:80とか。今は性差で枠を設けなくなったようだし、大学入試で話題になっているのは表向き男女差がないことになっているのに実際は排除していたことが問題なわけだが、それにしたって25年前は元々男女で入学できる人数に差があることを疑問すら抱かなかった。

 

そんなことを踏まえると公立の学校に見られる「格差」とはいったいどれほどのものなんだろう。住む場所がすでに格差で振り分けられているし、仮に高級住宅街に公営住宅などがあったとしてもお金に余裕がある家庭は悪い噂を聞けば私立を選択したり引っ越したりするわけでいわば似た者同士が集う構造になっている。障害のある子に関してもインクルーシブ教育が進んでいるようにも見えない。わけわかんない事情で格差を考慮したり是正しているうちに日本と先進諸外国との間にどんどん別の格差を生み出してるのではないか。

例えば重度障害児、盲ろうあ児、生活保護世帯、親がLGBT、ひとり親家庭、外国籍児童、元皇族の子、小学生で起業、天才芸術家、親が不労所得がある、仏教以外の宗教を信仰する家庭、里親や施設で暮らす子などなど、例え学区にある公立小学校に通っても多分全員と接点を持つことは無理(友達にあなるとかいうのは置いといたとしても)。人口比で言ったらいるはずなのに。

そう考えると、娘には様々なルーツをもつ子どもと関わってほしいとか多様性を身に付けてほしいとか、人と違うことを誇りに思ってほしいとかそういう思いがあるけれど、一体どんなコミュニティに属したらそれがかなうのか。少なくとも公立の学校では多様性の中に身を置くことはできないだろうな。

 

それでも東京はまだマシと思える。実家の近くに住む人の話で「もし孫が障害児だったら家では面倒見ないから」と 言われた夫婦の話を先日聞いたが、そういう心のバリアフリーみたいなものも当然田舎では進んでいない。

年代もあるんだけど、そんな価値観の人たちに多様性について理解してもらおうとするとものっすごい骨が折れる。先日、もう20年も前に出版されたものだが宮台真司の本を読んだら自殺につながるような陰湿ないじめが多いのも地方だと書かれていてそれもすごく納得できるものだった。そう思うと田舎への移住ってある側面ではすごくよく見えるけど別の側面では必ずしも生きやすいとは言えないなあと。

 

 何もしなくても子どもは育つっていうのは概ね賛成なんだけど、学校社会はすでに「何もしてない」場所じゃないと思う。本来の社会の姿をありのままに認識できるようにいろんなことを体験させる、いろんな人との接点を持つことを早い時期から経験させるにはやはり親が準備しなきゃならない気がしてる今日この頃。

風邪かと思ったらリアルに「更年期障害かって思いますよね」

1週間ほど時のような体のだるさ、悪寒、全身の筋肉痛がある。実際測ると熱はないどころか35℃とかものすごく低い。去年もこれくらいの時期に風邪の後同じような症状があって病院行ったら

「今流行ってる風邪の症状だよ。そういう人多いです」と言われ、実際そういう人も周りにいたので風邪の症状じゃあ仕方ないと思ってたけど、今回はのどの痛みや鼻水など風邪の症状は全くない。

昨日はあまりにも悪寒がひどくて21時には寝たのに体の痛みで眠れず熱を測ったら37.4℃。解熱剤飲んでようやく眠れた。今朝はしんどいけど今日は週1のしゃべる業の日。休んだら振替しなきゃいけないし振替の日に今度は娘が熱出すかもしれないし、寝てたいけど幼稚園の送迎(往復50分×2往復)はあるし休ませても娘がいたらゆっくりできないし・・・と考えた結果結局鎮痛剤飲んで乗りきった。

 

白血病か?とかB型肝炎かも・・・とか知識が浅いゆえにそういう大病の可能性も一瞬頭がよぎったけどまあとにかく病院行ってみることにした。上記の診断をした町医者だが、症状を言うとう~ん?と唸っている。なんだろうね~わかんないね~困ったね~と。

なので自分から言ってみた。

更年期障害の可能性はないですか?と。

いやいや40歳でしょ?年齢的にまだ早いわよ~という反応だったが

生理周期が短くなっていることや乳がんで抗がん剤を経験したことなどを話したら

「乳がんの検診が3か月前でその時なにも異常なかったのならそっち(更年期)の可能性が高いね~。もし続くようなら婦人科行ってみて」だそうだ。

実は症状の出始めがちょうど月経後だったからホルモンの影響かな~というのも一瞬考えたけどいやいやないない、と自分で否定してた。けど他の可能性が考えられないならやっぱそうなんじゃないかっていう気がしてる。

 

若くなはいがまだ更年期には早い年だ。だがしかし私の場合、乳がん治療の抗がん剤で卵巣機能や妊孕性が低下する可能性はもともと指摘されてたし、実際不妊治療の際に卵巣年齢を測る検査(名前忘れた)で当時の年齢より4~5歳上で出てたからはじまってもおかしくないんだよな~。

 

しかも抗がん剤の時にリュープリンという生理を止める(ホルモンを抑制する?)注射をしたときに、更年期障害の症状を経験しているので「またあれが来るのか・・・」というのがわかっているだけに怖い。いずれは来るとわかっていてもこんなに早いとはな~。

他の人はどうだか知らないが私自身は正直、抗がん剤そのものの副作用なんて屁みたいなものでリュープリンによる更年期症状がホント辛かった。

きっかり40分に1回起きるホットフラッシュ。暑くて苦しくなるので発作がきたら冬でも窓開けて冷気にあたってた。通称”ホトフラ”を抑えるために飲んでいた抗うつ剤(うつ症状はないが、副次的効果としてなぜかホトフラが抑えられるので処方された)で発作の頻度は1時間半に伸びたがその薬が効くまで1か月間、抗がん剤以上の吐き気嘔吐で苦しんだ。足首・ひざの関節痛で階段降りるにも激痛。指もうまく動かせない。あと食事制限しないとすぐ太る。

でも当時、今のような悪寒の症状はなかったから違うと思って油断してたわ。

更年期障害の症状を抑えるためにホルモン療法とかあるけれど、乳がん経験した自分の場合はホルモンを減らす治療はあっても補充する治療はできないだろうしな~。

 

ちょっと前に更年期障害という言葉がきっかけで炎上騒ぎがあっただけに苦笑いです。

news.nifty.com

 

ちなみに更年期障害=ヒステリー、イライラというイメージが大きいが、抗がん剤の時は精神面にはあまりこなかったな。今後はわからないけど。

 

見た目が老いていくことについてはだいぶ受け入れられるようになった(とはいえなんやかんやで白髪染めは継続してるし増毛エクステもしている)。でも身体機能については今までできていたことが同じようにできなくなるっていうことで結構制限される。老眼ももうそろそろだと思うし。

 

できることを増やすことで自信を持とう!と前に前に進むことを求める人もいますが、できることの積み重ねで自己肯定感を高めると、できなくなった時、例えば加齢で記憶力が落ちたり若い人なら簡単にできることが時間をかけてもクオリティが低かったり、あるいは障害を抱えてアイデンティティが失われた時など、そういう時に急激に自己肯定感が下がり、無価値感を覚える危険性ってのがある。だからこそ、できない自分であっても”まあ、それでもOK”と受け止める習慣をつけとくことって大事だな~改めて思う。保険を掛けるような生き方なのかもしれないけど。それも「足るを知る」ことなのかもしれないな。どんな自分であっても自分。不便だけどさ。

 

 

 昨日からこれ読んでるけど、やーホントにこれからの人生の方が長いんだよね。そしてちょうど今週のWEEKLYOCHIAIが身体をアップデートせよ、だったので今日眠いけど頑張ってみよーっと。

 

 

ママ友グループでの「コレジャナイ感」

時期が時期なので新年会やらクリスマス会やらママ友との会合の準備がLINEで活発になってます。

 

赤ちゃんの時からの幼馴染ママ友グループと旧保育園のママ友グループ。どっちも気楽と言えば気楽だし、居心地悪いと言えば悪い。

Twitterやブログ記事で飲み会でのサラダ取り分け問題や、ママ友の家にお呼ばれした時の手土産の話などとも通ずるが、そういうのを女子力が高いとするならば私は本当に女子力が低い。

「私は〇〇作っていくね~」

「じゃあ私は飾りつけ担当するわ」

「紙コップとお皿は用意したから持ってこなくて大丈夫だからね」

「子どもたち用にこんなの持ってくね(手作りのなんかの写真UP)」

 集まったら集まったでまあみんな、示し合わせたかのように準備とか片付けとか手際がいい。飲み会で男子にモテるためだけにやってたんじゃこうはならないってくらい気配りが徹底している。普通の人は30数年生きてるとそういうのが自然と身につくらしい。

私はというと何やっていいかわかんなくてあたふたするかどっしり構えてるかどっちか。仮に「こういう場面ではこうした方がいいな」ということが思い浮かんでも「でもやっぱめんどくさいわ」が勝ってしまう。こうやって書いてると特性持ちっぽいよな。。。

 

それだけが理由ってわけでもない。それなりに長く付き合ってくると気を遣わなくなってはくるんだが、一方で「あー私がこの場にいなくても全然いいし誰も困らないよな~」って急に客観的になったり私がわからない会話(二人目育児の話題や幼稚園の行事など、我が家には該当しない話題)になっても「みんなと同じとこ選んでおけばよかった」とも「早く私のわかる話題に変えたいな」とも思わない。昔はわりとそういうこと思うタイプだけど、最近どうでもよくなった。「あ~だから来るのやめとけば良かったのに」とは思う。

 

 

とにかくこれまでの人間関係を思い起こしてもどこにいても自分ははめ外せないなーと感じたり、疎外感を感じたり、みんなとは違う自分に落ち込んだり。。。だからかもしれないが今まで所属した学校に愛校心を持ったことがないし、地元愛みたいなものもない。愛国心も当然ないな。

他のどこかに愛着があって「あっちはい~な~」という隣の芝生は青い、というのではなく、ただただ所属したところに「コレジャナイ感」をいつも覚える。

なんだろうなこれ。

どこに行っても自己開示せず 本音を話さないせいかな。

あとは私の極度のめんどくささが人間関係(人を理解しよう、理解されようと一生懸命努力すること)そのものをめんどくさいものとして認識してて努力しないってこととか。

これもHSPかエンパスの特徴なんかな。はたまた吉濱先生のいう隠れアスペか。

 

1か月前に読んだ本なのですが

bookmeter.com

 

本当の自分なんてものはなくそれぞれペルソナを使い分けていて、その集合体が 自分である。例えば、そういうママ友グループにいるとき居心地の悪さを感じて「こんなの本当の自分じゃない」と感じたとして、それも「本当の自分の一人(分人)」である。ママ友グループAでもBでも親戚の集まりでも高校の同級生でも、夫と娘と3人でいるときでもそれぞれ分人であってそれら分人の集合体が個人(本当の自分)。私はそれぞれの場で全然キャラが違ったりする。それでまた「あーなんでこんなキャラにしちゃったんだろ。自分らしくいればいいのに」って落ち込んできたんだけど、そういうキャラの使い分けって結構多くの人がやってるらしい。

それで、その分人(例えばママ友グループB)が嫌なら会う回数を減らす。あたりまえのことなんだけど。減らせないなら自分の気に行っている分人(例えば一人の時間だったり、夫婦でいるときなど)の割合(時間)を増やせば相対的に他が減る。

例えば高校の同級生グループなんてさ、高校生の時は分人として70%くらいを占めてたからそこでやれフラれたケンカした~ってなるとすごく苦しかったわけだけど、その後たくさんの新たな分人が生まれたことで今となっては1%にも満たないわけ。そうするとその苦しみを思い出す回数だって当然少ない。

 

 

私は1対1とか2~3人くらいならまだましなんだけど、大勢の人といるとどうしても流されて同調してしまいがちで、毎回一人になった時に「次こそ本心をいうぞ」とか「乳がんの話するぞ」と思うんだけど結局、突然今までと別のキャラになるのってやっぱり難しいんだよね。それでますます居心地悪くなるんだけど、もうそういう元のキャラで貫いていいのかもしれない。そのかわり会う回数を減らして分人の割合を減らす。ただこれから新たに作られる分人は一番楽な分人(一人でいる時)に近いキャラで行こうと思う。

 

結論。

本読むといいね!役に立つよ。

ただちゃんとアウトプットしとかないとすぐ忘れるぞ!