何者でもない自分の記録

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家庭の方針の違いと格差は共存しうるのか?

 ”お金の教育”の一環で最近娘に財布(親戚からもらったお小遣いなどが資源)を持たせて買い物をしているが、先日自分で買ったぬいぐるみをえらいかわいがってて、今朝も櫛で毛並みを整えてあげていた。それを微笑ましく眺めながら

「私は一度もぬいぐるみを買ってもらったことがないな~」と

想いを馳せていた。唯一持ってたぬいぐるみは入院中に近所のおばちゃんがお見舞いにくれたもの。

超合理的な考えの母親だったので親の視点から役に立たないもの、勉強に使えないものなどは買ってもらえなかった。衣食住だってあればよい、という考え。勉強机のような家で使うものもそうだし、裁縫箱だとか習字道具のように学校で使うものも兄や親戚からのおさがりがあるものは絶対に買ってもらえなかった。それ以外でもピアノ教室のクリスマス会のプレゼントも他の子たちは恐らく1000円はする貯金箱やマグカップを差し出してる中、うちは「子ども同士のプレゼント交換なんだから安いもので!」と鉛筆2本とか。で当たった子にはブーブー言われる。

両親ともに公務員だったので決して貧乏ではなく、田舎には大企業のエリートの子も医者の子もいなかったので経済事情は他の子よりもむしろ上だったと思う。事実、小学校区ではうちほど教育に投資した家はないだろうし、中学校区でようやくちらほらいるくらい。私はそれを逆手にとって高校から進学校に行くことで家を出ることができたんだが。

 

今となっては

タマ&フレンズ?うちのタマ知りませんか??

なんて誰も持ってないし(裁縫箱がそのキャラクターので統一されてたがうちだけおさがりで違った)、ランドセルとかそういう学校用の道具が女の子でも黒(兄のおさがりは黒が多かったが以下略)ってのはよくあるが当時は死活問題だった。あとは友達の家へのお泊り禁止とか友達同士でお祭りに行くの禁止とか、モノだけでなく家庭のルールや生活習慣などがみんなと違うことも長いことコンプレックスだった。

毒親ってほどではないのかもしれないが、娘には私のような想いをさせたくないなあという事柄は山のようにある。

 

大学で上京してから今まで東京に住んでて良かったと思うことは、単に親との距離があるということではなく、都会ではそんな風に周りとは方針が違う家庭でも肩身が狭い思いをしなくていいってこと。

私が通った大学は私立女子大で、私のような田舎もんもいれば帰国子女もいるし高校まで公立の子も小学校からエスカレーター式の女子高に通ってたお嬢様も浪人生も仮面浪人もいた。裕福なのに「欲しいものはバイトして買いなさい」という方針のもとで育った子もいれば、大学生になっても「バイトなんてとんでもない」という家庭の子もいる。東北生まれもいればモロッコ生まれもいる。高級住宅街に住んでいるのに家庭の方針でテレビや電子レンジがない、という家庭の子もいる。門限18:00で男の子とは連絡取っちゃいけません、ていう家の子と門限なしで彼氏も実家に出入りしてOKみたいな子が友達として遊んでも、どっちもそれが責められることがない。田舎ではまず、そこまで環境が違うと友達として共存できない。

まあ、私個人のタイプ的に女子大という場所が居心地いいかというとそんなことはなかったが、みんなと同じことができない持ってないことが致命傷だった自分にとっては、みんなとお金の使い方も時間の使い方も違っても一緒に過ごせる、っていうのはすごいカルチャーショックだった。

 東京の良いところはなんでもモノが揃っているということではなく、そういう家庭ごとの方針が違ってもそれが人間関係にさして影響しないし干渉もされないことだと思っている。だから私が娘を自分の子ども時代と全く同じように制限したとしてももしかしたらそこまでの生きづらさは感じないのかもしれないな~。ま、しないつもりだけど。

 

 そんなことを空想しながら朝ごはん用意してたら先日Twitterで流れてきたニュース記事を思い出した。

headlines.yahoo.co.jp

ハロウィンなんかもそうなんだけど振袖とか袴とかも親同士のマウンティングだったりある種の着せ替え人形的な要素も大きい気がする。貸衣裳屋も写真屋も髪セットする美容院も相当煽ってるんだろうなーとも思ったり。でも

「みんなが同じ格好を基本にすれば家庭の格差が表れない」として5、6年生への制服導入を提案

 なんて一文を見てなんだかなーと。それならもう”式典は学校ジャージで出席するものである”っていうしきたりに書き換えて親も教員も来賓も正装しない方がいいんじゃない?親もさ、そこまで着物や袴やドレスに思い入れあるわけでもなく、卒業式=晴れ姿=写真映えする格好!ってなってるだけで制服導入もどっちも思考停止してると思うんだ。

もう、ぜったい人と被らない100通りの貸衣装を学校が用意してさそれぞれ子どもに選ばせるのでもいいよ。制服なんていう時代に逆行するようなもん取り入れるくらいなら。

というかさ、なんで京都大学の卒業式みたいな発想にどこもならないんだろうな~と思った

kyodai.360-degrees.jp

 

 

こういう独自路線を行くことの方がお金をかけてもかけなくてもよっぽど思い出になるんじゃないかなーと思ったり。でも。

 そこで気づいたんだけど。

京大ってきっとそんなに格差ないんだよな・・・。東大が金持ちばっかりってのは有名な話だから京大もそんなに変わらないと推測ができる。

私がカルチャーショックを受けた自分の母校だって「そこそこ偏差値の高い私立の女子大」という時点で、おそらく生活保護世帯や地方のあまり裕福でない家庭の子はその土俵に乗ってないんだよな。

それを突き詰めて行ったら、公立小学校ですら今の日本の階層?をそのまま反映させたところなんてないんじゃないか?って気がしてきたのだ。

今年春には公立小がアルマーニの制服を導入するというニュースが話題になりました。

www.huffingtonpost.jp

これ、もし都内でもA区だったらこんな突飛なことも起きないんだけど、じゃあA区の小学校には超大金持ちのお子さんが通っているかというと仮にA区に住んでたとしても私立を選ぶんじゃないかな~。そうすると超大金持ちと生活保護世帯や低所得層が共存するっていう場面自体が都会ではないんじゃなかろうか。

私は合理的でないと親が判断したモノを買ってもらえない家で育ったけれど貧乏ではなかったゆえに、うちだけでなくモノを”買えない”のではなく選択的に”買わない”家庭があることを大人になってから知ることができたが、実家の向かいに住む生活保護世帯の子ども(今は大人)はおそらくそういう世界があることも知らず生活保護が必要なくなった今も安い賃金すら親に搾取され続けている。一方で私自身も超大金持ちの人たちがどんな学校生活を送っているかなんて花より男子(ドラマ化されてる漫画)を見て想像するくらいしかない。

これは経済的格差だけのことではない。

もう20年近く前に「世界がもし100人の村だったら」っていうチェーンメールまがいのものが流行った。

世界がもし100人の村だったら

”日本”のかつ”学校”だから年齢やある程度の人種・宗教は限られるものの、障害の有無や男女の比率、経済状況などは公立の学校、なんなら幼稚園でさえ反映されてないと感じる。これから幼児教育の無償化が始まればおそらく公立幼稚園は障害児や発達に心配のある子が多くを占めるようになると私は推測している(いずれまとめる予定)。ひとり親家庭に関して言うと圧倒的に保育園が多いだろうし。

今色んな大学が入試で男女差別していたことが話題になっているが、私が通っていた公立高校は男女で入学定員に差があって男女比200:80とか。今は性差で枠を設けなくなったようだし、大学入試で話題になっているのは表向き男女差がないことになっているのに実際は排除していたことが問題なわけだが、それにしたって25年前は元々男女で入学できる人数に差があることを疑問すら抱かなかった。

 

そんなことを踏まえると公立の学校に見られる「格差」とはいったいどれほどのものなんだろう。住む場所がすでに格差で振り分けられているし、仮に高級住宅街に公営住宅などがあったとしてもお金に余裕がある家庭は悪い噂を聞けば私立を選択したり引っ越したりするわけでいわば似た者同士が集う構造になっている。障害のある子に関してもインクルーシブ教育が進んでいるようにも見えない。わけわかんない事情で格差を考慮したり是正しているうちに日本と先進諸外国との間にどんどん別の格差を生み出してるのではないか。

例えば重度障害児、盲ろうあ児、生活保護世帯、親がLGBT、ひとり親家庭、外国籍児童、元皇族の子、小学生で起業、天才芸術家、親が不労所得がある、仏教以外の宗教を信仰する家庭、里親や施設で暮らす子などなど、例え学区にある公立小学校に通っても多分全員と接点を持つことは無理(友達にあなるとかいうのは置いといたとしても)。人口比で言ったらいるはずなのに。

そう考えると、娘には様々なルーツをもつ子どもと関わってほしいとか多様性を身に付けてほしいとか、人と違うことを誇りに思ってほしいとかそういう思いがあるけれど、一体どんなコミュニティに属したらそれがかなうのか。少なくとも公立の学校では多様性の中に身を置くことはできないだろうな。

 

それでも東京はまだマシと思える。実家の近くに住む人の話で「もし孫が障害児だったら家では面倒見ないから」と 言われた夫婦の話を先日聞いたが、そういう心のバリアフリーみたいなものも当然田舎では進んでいない。

年代もあるんだけど、そんな価値観の人たちに多様性について理解してもらおうとするとものっすごい骨が折れる。先日、もう20年も前に出版されたものだが宮台真司の本を読んだら自殺につながるような陰湿ないじめが多いのも地方だと書かれていてそれもすごく納得できるものだった。そう思うと田舎への移住ってある側面ではすごくよく見えるけど別の側面では必ずしも生きやすいとは言えないなあと。

 

 何もしなくても子どもは育つっていうのは概ね賛成なんだけど、学校社会はすでに「何もしてない」場所じゃないと思う。本来の社会の姿をありのままに認識できるようにいろんなことを体験させる、いろんな人との接点を持つことを早い時期から経験させるにはやはり親が準備しなきゃならない気がしてる今日この頃。