何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

モノや人に〇〇してもらったから××になった、では結局自分を受け入れられない

何度か記事にしている遠隔ヒーリング。1回目はすごくよくて2回目はあまり実感がなく、3回目でついに「あ、この人もういいや」と急速に冷め(覚め)ました。

この人、というかヒーリング自体もうジプシーして受けるのやめろってことだね。

冷めたきっかけはヒーリングの後に色々やり取りをした中で「自分は何もできないという想いに囚われている」というメッセージを送ったら「これを見ても同じことが言えますか?」とパラリンピック選手や雑技団のような技を披露する四肢に欠損のある障害者の動画。

あのさー。

彼らは努力をしてきたわけだよね。私のようにぶつくさいいながら大した努力もせずにぬるま湯に浸かってたのにできるようになったわけじゃない。これは私が差別してるとかそういう問題なの?

 

わかるよ、うん。あれだよね、アフリカの子どもは食べるものなくて餓死しているのだからご飯を残すんじゃない!っていう論理なわけですよね。実際それらしきメッセージもそれ以前によこしたが。

「自分は何もできないという想いに囚われている」という言葉は、本当に何もできないことを嘆いているのではなく、無力感を感じる何かがあり、つまりヒーラーであるあなたに癒してほしいとか話を聞いて受け止めてほしいとかそういう現れなのだけどなぁ。というか、その『障害に(病気に)負けずにひたむきに頑張ることが素晴らしい』という意味づけがあまり好きじゃないのだよ。障害者も貧困者も子どもでも、頑張らない人がいてもいいし、クズがいたっていいじゃんよ。

つーかもし私が寝たきりの重度障碍者だったら。もしガンで余命1か月だったら。ならば一体誰を比較対象として動画送ってくるのかね?これももしかしたら差別なのかもしれないけどさ。少なくとも日々、障害のある子や大人がただ存在するだけで、働かなくても、何も成し遂げなくても価値があるということをより多くの人にわかってもらうにはどうすればいいのだろう?と私なりに考えているところに、「頑張ってる障害者がいるのに、五体満足な人間が『私には何もできない』とつぶやくなんて贅沢だ!」と言わんばかりのことを言ってくる人には癒されない。

霊視ができる、ヒーリングができる=人格者、ではないし、=カウンセリングに長けているわけでもないということがよくわかりました。せっかく私にはできないことをできる能力を持ってるのにもったいないな~と思う。

 

まあ、そこから数週間。自分の状態はすごくよくなっている。でもそれはヒーリングのおかげではなく、自分がもたらしたものだと確信している。やはり自分以外の外側に「~のおかげ」「~のせい」を帰属させない方が私の場合は良いようだ。だから仮にヒーリングがそれを後押ししたのだとしても、根本を変えるのは自分しかいない。で、自分の効力は絶大だ。

 

今は、多幸感や高揚感は確かにない。でも、人の良い部分も自分の価値もすーっと受け入れられる(↑でヒーラーのこと批判してて言ってること逆だけど気にしないYO!)。

人の上に立ちたい、人に一目置かれたいという承認欲求や

嫌われたくない、ダメな人、出来損ないだと思われたくない、みんなと同じでありたいという所属欲求(これも承認欲求かも)からも脱しつつあって、なんか自分という容れモノに対する愛着も沸き、淡々と毎日過ごすことに大きな不満がない。

今以上に成功しなくたっていいし、上を目指さなくてもいい。

愛されてる実感はないけれど、それがその人(母やら夫やら)なりのその時の精一杯だったのだとも思える。

誰のためにも何の役にも立ってないように見えて、ただ存在してるだけで意味があるということすらなんとなく感じる。私のような陰がいるからこそ陽で輝く人がたくさんいるということも感じるから。

 

だんだんとそういうものを自分の中で受け取れるようになっているなあ。今ただ或ることが幸せってこういうことだとわかってきた。お?悟りに近づいてるんじゃないの?!