何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

「生をあじわう」のって大変だね!

 年末年始、この本を読んでいたのですが

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

 時間がかかりました。10日くらい。家の近くで、昼間行きたいときだけ行けて、ハードルが高くなく、かといって学部上がりの院生だけでなく社会人もいるような、自分の自己肯定感をアップでき、かつ議論できるような場所が欲しいなーと思いました。

社会学はやっぱ面白いねー。

 

それが終わったので読書の速度も戻りましたので久々にこちらで書評をば。

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

本屋に行くとめちゃくちゃプッシュされてますよね。又吉さんがおすすめしてたのが大きいらしいですが、 アメトークの読書芸人は毎回見ているのに、最近まで本に興味がなかったので全然知りませんでした。

私は、やはり人間関係というものにコンプレックスがあるわけです。なのでもう40も過ぎて友達少ないことなんてどうでもいいはずなのに、それにポジティブな意味づけをしたくなるわけです。

先日読んだ、茂木健一郎さんの本では、自分の個性に気付くには他人と出会わなくてはならないし、個性を形成するには社会的なネットワークが必要だと書かれていて、絶望したのですが、こちらの本では、

「生のあじわい(=生きてる歓びや幸福を感じること)」をもたらすのは、自分ではなく他者であることが書かれていました。

確かに「生きててよかった!」「私は今幸せだ!」と感じるには他者に承認されることが手っ取り早い。一方でこの本でも述べられているように、「脅威の源泉(=自分の不幸にするもの)」もまた他者だということ。

 

私は自分が回避性人格障害だろうと気付いたのは3年くらい前。人と深く付き合うのが怖い。昔はそんなことなかった気がしますが、年を重ねるごとにその傾向が強くなっている気がしますが、過保護過干渉な毒母の影響もあるし、鬱で仕事辞めたことも関係してるだろうし、カサンドラ症候群(夫が発達障害と思われる)なのも追い打ちをかけていると思います。

だから、できることなら人と関わらずに幸せを得れたらいいなと思うわけです。が、学者が書く本を読んでいると、私の思い描く「いつも幸せ♡」「今生での使命を果たす」「私らしく生きる!私の個性を知る!」みたいなふわふわしたものも、結局は人間関係を通してしか気づけないようなのです。

しんどっ!

 

いや、今はそれなりに人と関わって生きてますよ?ママ友もいるし、人前に立つ仕事もしてるし、いちばーん苦手な子ども相手の仕事もちょっとはしたし(たった1年半な)。でも、私の本性をさらけ出しては全くないし、いつも誰かを演じている感はある。「夫にだけは本性出せるわ~」「お母さんはいつも私の味方してくれるから愚痴聞いてもらえてありがたいな~」というのがあればそれでもガス抜きできるんだろうけど、前述のように毒母&アスペ(多分ね)のコンボなのでむしろ余計ストレスになるわけです。しいて言えば娘は無条件で私を受け入れてくれる。でも4歳だよ。依存しきると、今度は娘が将来アダルトチルドレンになってしまうでしょう。

 

著者の言う「生のあじわい」こそ生きてる意味、生まれてくる意味なんだろうなとはぼんやり思う。でもやはり他者からしか得られないことには絶望もする。確かに他者からの承認されるとうれしいし、やる気にもなる。それが真理なのだろうけど、でもでもやはり、内発的な動機づけ(自己承認)のみでも得られる幸せや、使命感みたいなものも追求したいとも思ったり。逃げかもしれないけど、支え無しに「脅威の源泉」に立ち向かえる気がしないなぁ。そこは諦めたくないなと思います。いやだって、マズローの欲求5段階説だって、承認欲求の上に自己実現と幻の自己超越があるんだもの!!

<追記>あとで気づいたけど、欲求5段階説は下から順に満たされてないと次に進めないわけで、つまり承認欲求が満たせないまま飛び越していきなり自己実現欲求を満たすのは、無理ではないけどそこが内側から湧いてこないってことですね…。その承認欲求が自分で満たせればいいのだけど、なかなかそうはいかないだろうな~。やはり人と関り褒めてもらうしかないのか…。

 

2点目。世の中で起きている現象はすでに社会学で説明されてることが多い。しかもだいぶ昔に。だから社会で起きてることを俯瞰して正確に把握するためには勉強(知識をインプット)することが大事だし、それを学者とは違う表現でどうアウトプットすれば伝わるかを考えるのも大事だなーと思いました。

 

 

3点目。教育との関連について。自分の人間関係はさておき、これから娘っ子は学校というコミュニティに属し、今は経験していないだろう様々な人間模様に触れることになる。ただ、今のところ未就学なので私が学校(義務教育)に関わっていたのは自分の中学生だった16年前以上前まで遡るか、あるいは院生時代に中学校で1年だけやったバイト、それでさえ18年くらい前か?というくらい前なので、日常的に学校と接点のある筆者と学校の捉え方というか学校の見え方が違うなとは思いました。いずれにしても「学校(や教師)なんかにたいしたこと期待するものではない」という結論にはなるのですが。

自由を保障するための最低限のルール(こうすべき、ではなくこれだけはしてはいけない)さえ教えればいいのかなーと。個性を伸ばす教育ではなく個性を邪魔しない教育が望ましいと思うし、個性的な人間というものはなろうと意識してなるものではなく、普通にしようとしても力量が溢れ出てしまう人のこと、というのも言われてみればその通りだなーと思う。でも、多くの教師が思い描く”最低限の社会生活”というのは、筆者の言う”同調圧力”に屈することのできる大人を目指すんじゃないかなーという気がしてます。知らないのにこんなこというのは失礼だけれど、公立の学校教員に天才がわんさかいるとは思えないので、天才が天才性を発揮しながら、一方で社会にも受け入れられるように折り合いをつけるやり方を凡人がどう教えていくのか?さっぱりイメージがつかないのです。
最近読んだ本がとがった人が書いた本も結構多く
気に入らない人とは折り合いをつける必要なし!
自分で限界を決めるな!
という思考に毒されていたので、ある種ノーマルな人の考えに触れられて良かったなーとは思います。

そんなわけで、娘には「みんなと仲良く」ではなく気に入らない相手とはそれなりの距離を保ちつつ、傷つけ合わずに共在してほしいと考えるようになりました。

 

最後4点目。著者はなぜ亡くなったのか?

はい。スピリチュアル全開な問いです。帯を見てびっくりしたのですが、著者が亡くなった5か月後に著者の娘さんも急逝されたとのこと。しかもこの本はその娘さんのために書かれた本であったということ。こんな因果ってあります?シンクロニシティってこういうことを指すんですよねきっと。

帯は奥さんが書いてらっしゃいますが、

もしかしたら私は『友だち幻想』を皆さん伝え届けるメッセンジャーという運命だったのかも知れません。

と結んでいます。いやこれ、本当にそうだと思います。友だちなんて幻想を捨てて自由になろう!幸せになろう!ってことを今のこの時代に刻むために、生まれてくる前に3人で相談して、それぞれ役割分担をしたとしか思えないんですけど。

 

長く生きてもやろうと思ってきたことをやらないまま来世に持ち越す人もいるだろうし、寿命より短くしか生きられなくてもやろうとしたことを達成して死んでいく人もいると思う。去年父を亡くしてますます思うのは、辛い思いしてまで長生きする必要はないなってこと。とはいえ、その「辛さ」を味わうために生まれてきたのなら全うしなきゃいけないんだよな。私がこういう自省タイプなのは父の遺伝子を受け継いでるからと確信しているが、父は亡くなるまでに答えは見つかったのだろうか。

そろそろ、いつ死んでもいいように、今生でやるべきことをやらんとなーと思います。一つは娘に「大好きだよ~」と愛を伝えること。あとはなんだろな?それがわからないうちは死ねないのかな。