何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

ほっとくとどんどん内省(-)モードになる

昨日はとにかくダラダラと過ごしていてものの、良かったことも挙げられないくらいなんかいやーな気持ちになっていた。

 

私にとっては、実母と夫という、本来一番身近で心を許せるであろう存在が、一番厄介な存在だ。それに比べればその他の人間関係なんて(逃げられるって要素もあるけど)屁みたいなものだ。

今年は親孝行をしようという抱負を立てていたが、すでに撤回したい気持ちだ。なぜ親孝行をしたいかというと、母のため(父は去年他界)ではなく自分のためだ。プチ毒母に育てられ、あんな人に孝行なんてしたくない、という気持ちのままでは、不幸を呼び込むからだ。

一方で母の影響をそのままにしておくと、ますます"自分は人として最低"という自己否定から逃れられないのも事実だ。

 

で、実母からの影響になんとか折り合いをつけたところで、普段の生活に戻ればそこには発達障害傾向のある夫との暮らしでカサンドラ症候群に身を置くことになる。

この二人から仮に開放されたとして、私はなんのストレスもなく幸せに生きることができるのだろうか?新たな問題児の役目を娘や別の人間に負わせるだけではないのだろうか?

 

そう思うと、相手が誰であっても結局私が誰にも依存せずに言いたいことを言い、やりたい事をやるしかないのだろうな。

私はただでさえ人に頼るのが下手で、自分一人でなんとかしてしまおうとする性質だ。そういうのは本当の「自立」ではないと思うし、娘にも自分でなんでもできることよりもいざという時は人に助けを求める力、互いに助け合う気持ちを身に着けて欲しいなーなんて思ってる。

なのに、いざという時一番頼りにできるはずの立場の人がそうでないということは、それ以外に頼れる人を作らなければならないということ。

もしかしたらそれ(家族以外に頼れる人を作ること。人に頼ってもらうこと)が今年の本当の抱負になるのかもな。

 

Twitterでは毎日のようになにかしら炎上案件があって、敏感な私はその感情にいちいち反応してしまって疲れる。最近、自分以外のことに怒りを感じないのは、上記の母親と夫への怒りだけで精一杯だからだ。

誰かのために怒れる、戦えるってのは、本人が満たされているってことか、自分の満たされない想いを投影させてるかどっちかなのかな。少なくとも今の私にはある属性の人(日本人だったり高齢者だったり女性だったり学童だったり)のために戦う余力がないというか、アンテナが建てられない。

でも一方で、いくらひのきのぼうを振り回したところでダメージ1も与えられない相手もいるわけで、私がもしはじゃの剣くらいの強さの武器をもってるならせめて使わないといかんよね。本当はきせきの剣が好きなんだけど、まだ手に入れてないからしょーがない。

 

まあ、タイムリーなネタに反応する必要はないんだけどね。