何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

モノや人に〇〇してもらったから××になった、では結局自分を受け入れられない

何度か記事にしている遠隔ヒーリング。1回目はすごくよくて2回目はあまり実感がなく、3回目でついに「あ、この人もういいや」と急速に冷め(覚め)ました。

この人、というかヒーリング自体もうジプシーして受けるのやめろってことだね。

冷めたきっかけはヒーリングの後に色々やり取りをした中で「自分は何もできないという想いに囚われている」というメッセージを送ったら「これを見ても同じことが言えますか?」とパラリンピック選手や雑技団のような技を披露する四肢に欠損のある障害者の動画。

あのさー。

彼らは努力をしてきたわけだよね。私のようにぶつくさいいながら大した努力もせずにぬるま湯に浸かってたのにできるようになったわけじゃない。これは私が差別してるとかそういう問題なの?

 

わかるよ、うん。あれだよね、アフリカの子どもは食べるものなくて餓死しているのだからご飯を残すんじゃない!っていう論理なわけですよね。実際それらしきメッセージもそれ以前によこしたが。

「自分は何もできないという想いに囚われている」という言葉は、本当に何もできないことを嘆いているのではなく、無力感を感じる何かがあり、つまりヒーラーであるあなたに癒してほしいとか話を聞いて受け止めてほしいとかそういう現れなのだけどなぁ。というか、その『障害に(病気に)負けずにひたむきに頑張ることが素晴らしい』という意味づけがあまり好きじゃないのだよ。障害者も貧困者も子どもでも、頑張らない人がいてもいいし、クズがいたっていいじゃんよ。

つーかもし私が寝たきりの重度障碍者だったら。もしガンで余命1か月だったら。ならば一体誰を比較対象として動画送ってくるのかね?これももしかしたら差別なのかもしれないけどさ。少なくとも日々、障害のある子や大人がただ存在するだけで、働かなくても、何も成し遂げなくても価値があるということをより多くの人にわかってもらうにはどうすればいいのだろう?と私なりに考えているところに、「頑張ってる障害者がいるのに、五体満足な人間が『私には何もできない』とつぶやくなんて贅沢だ!」と言わんばかりのことを言ってくる人には癒されない。

霊視ができる、ヒーリングができる=人格者、ではないし、=カウンセリングに長けているわけでもないということがよくわかりました。せっかく私にはできないことをできる能力を持ってるのにもったいないな~と思う。

 

まあ、そこから数週間。自分の状態はすごくよくなっている。でもそれはヒーリングのおかげではなく、自分がもたらしたものだと確信している。やはり自分以外の外側に「~のおかげ」「~のせい」を帰属させない方が私の場合は良いようだ。だから仮にヒーリングがそれを後押ししたのだとしても、根本を変えるのは自分しかいない。で、自分の効力は絶大だ。

 

今は、多幸感や高揚感は確かにない。でも、人の良い部分も自分の価値もすーっと受け入れられる(↑でヒーラーのこと批判してて言ってること逆だけど気にしないYO!)。

人の上に立ちたい、人に一目置かれたいという承認欲求や

嫌われたくない、ダメな人、出来損ないだと思われたくない、みんなと同じでありたいという所属欲求(これも承認欲求かも)からも脱しつつあって、なんか自分という容れモノに対する愛着も沸き、淡々と毎日過ごすことに大きな不満がない。

今以上に成功しなくたっていいし、上を目指さなくてもいい。

愛されてる実感はないけれど、それがその人(母やら夫やら)なりのその時の精一杯だったのだとも思える。

誰のためにも何の役にも立ってないように見えて、ただ存在してるだけで意味があるということすらなんとなく感じる。私のような陰がいるからこそ陽で輝く人がたくさんいるということも感じるから。

 

だんだんとそういうものを自分の中で受け取れるようになっているなあ。今ただ或ることが幸せってこういうことだとわかってきた。お?悟りに近づいてるんじゃないの?!

 

児相で働きたいと思えないのはエゴか?

児童相談所の職員って、公務員だから新卒の公務員試験受からないとなれない、と思ってた学生の頃。

今、求人情報見てると、児相でも子家センでもよく嘱託職員を募集してる。しょっちゅう求人が出てる自治体はブラックなんだろうなーと思いつつ、まあ、ブラックじゃない児相なんて存在しないだろうなー。

今は全く児相で働きたいと思わない。あんな現場に行くなんて、まさにKAMIKAZE。

ついでに、スクールソーシャルワーカーも、前はやりたいと思っていたけども今は思わないな。教育委員会という組織の下でソーシャルワークするってのが嫌だ。あくまで私はそうだがキャリア的にはいいのかもしれない。

 

話が飛び飛びになるのだけど、Twitterで初めてキーワードミュート機能を使った。とりあえず「虐待」と「児相」。私が著名人以外でフォローしてるアカウントはだいたい、

・子育て

・発達障害系(教育関係)

・児童福祉関係(当事者含む)

・NPO勤務

などの方なので特に今週は千葉の虐待死女児を取り巻くあれこれについての意見が否が応でも飛び込んでくる。

 

元々ここで児相の話を書こうと思ってたのは、「私が児相で働きたいと思えないのは承認欲求が満たされない場所だからで、つまり、私はやはり人の役に立つことよりも承認されたいというエゴが勝っているからなのではないか」っていう気づきを吐き出しておこうとしてなんだけど。メンタル弱いから耐えられないだろうなってことも勿論あるのだけど、心身ともにボロボロになっても誰かのためになにかをするよりも、高みの見物をしていたいってのはやはりエゴなのかな?と。

 

そんなことを思いながら下書き保存して練ってる間も児相児相虐待虐待DV…

児相に電凸止めよう!ってTweetしてる人もいるけど、児相に電凸するような人はTwitter使いこなしてないだろう、とかは置いといたとして。

児童虐待が許せない人、さらに児相や教員(今回で言うと母親も)が置かれた状況が想像できて「もし自分だったら」と仮定して考えられる人、これらを取り巻く世間の偏見や誤解を是正したいと思って発信してる人は、まじめ、優しい、正義感が強い(社会を変えたい)、などの特徴を持つのではないだろうか。意識高い系とはまたちがうのだけど、そういう問題意識が高い人ほど、恐らく現場ではまともではいられなくなる。鬱経験者、休職中の方もちらほら見られるし、実際教員や児相職員に病休中は多いでしょう。あ、私は現場じゃないとこで働いてたのに鬱になった人ですがね。

加えて仕事外の時間までTwitterで議論を交わし、正義感に自由時間を明け渡している。そりゃあメンタル弱くなくてもメンヘラになるわさ。「私が(私達が)なんとかしなきゃ、変えなきゃ」と思う人から潰れていく。

週末、地下アイドルに会うためにメシの種として割り切ってる、とか、子どもなんか嫌いだから悲惨な境遇の子ども見てもなんにも感じない、とかそういうメンタリティだったら続くのか?それでも保護者にも社会にも他機関にも無能扱いされたり理不尽に叱られたりしたら嫌になるだろうなぁ。相当ぶっ壊れた人か、他で大部分を発散できる人じゃないとキツイ気がする。

 

先日読んだファクトフルネスっていう本のことを思い出した。

世界は私たちが思うほど、悪くはないってこと。人間にはネガティブ本能や恐怖本能が存在するのだそうだ。マスコミから児相でうまく行った事例なんて大々的に報道されたりしないし、企業はモノ売るために恐怖心を煽るし。「〇〇が悪い!」「××の対応が間違ってる!」と弾圧すると、何となく道徳心や正義感を満たせるので気持ちいいし、そういう人向けにテレビやニュースってあるなあと思うくらいだ。

”児童虐待相談件数は年々増え続けている”という根拠を示す棒グラフなんかを見て”虐待が増えている!近頃の若い連中は!”なんて言ってる人をみると「いやいや、虐待ってものが認知されたから通報・相談する人が増えただけで虐待が増えたわけではないでしょうに」と思うけれども、それもいちいち言わなくてもいいのかもなあと思い始めた今日この頃。

特にHSP傾向のある人はこういうニュース見てたら常に頭の中は怒や哀に支配されてしまう。加えて誤解を解こう、偏見をなくそうと思うと自分のためではなく、誰かのため、人の権利のために怒り、主張していくことでますます頭の中はネガティブな情報や感情だらけになる。そのために自分の精神が常に「怒」「哀」で満たされてしまっているなら、それは自分に対する虐待なのではないか。自分一人すら虐待から救えないなんてそれこそ悲しいことだ。

そういうソーシャルアクションは某社会を変えるを仕事にしてるNPO代表や、某弱者のために搾取企業にケンカふっかけてる人などに任せて、自分は自分を大事にしようと思う。

というか、みんな常に虐待問題のことを考えてるわけじゃなく、色んな人の発信がタイムラインに流れてくるからそればっかり考えてるように見えるだけで、ちゃんと休んでるのかもね。でも、私はそういう「気」みたいなのに流されていちいち反応してしまう質だからキツイだけなのかも。だから正直、女性蔑視に関する各種炎上もそうだけど思考しすぎ、感情で反応しすぎてだんだんTwitterがつまらなくなってくる。んで、ミュートにしてみたんだけど、頭空っぽにして楽しむにはどんなアカウントをフォローすればいいんだろうね。

 

あ、あと虐待死が起きると、

「赤ちゃんはママを選んで生まれてくる」信者はどうコメントすんのよ?って突っかかってる人もたまに見るけど。私も過去はそう思って怒ってた。まあ、確かに誰かのコメント聞いてみたいと思う。私なりには答えは、あるのだけど。

でも、それを言ったところで救いにはならないだろう。特に論破したい批判したい気満々の人には届かないと思うし。人は親を選んで生まれてきてるというのは「私は」真実だと思っているけど、伝わらんだろうなと思うので言わない。だからといってそれが真実でないという証明にはならんでしょうし。「地球はまるい」って言って投獄されるの嫌だもん。

 

感謝したい人が親じゃなくたっていい

二分の一成人式とか、生い立ちの授業で赤ちゃんの頃の写真持ってこいとか、親への感謝の手紙とか。

そういうの、ホントに止めたらいいのにと思う。

いや、それをやる教師が意図をしっかり理解してて、背景を問わず子どもたちの自己肯定感を上げられるような中身にできるならやる意味はあるだろうけど、そこまで中身を精査して取り組める状況にあるとは思えないのだよね。いや教育現場のこと知らずに適当に言ってるけどもさ。

というか、施設や里親の元で暮らす子や虐待ネグレクト状態にある子どもを傷つける恐れがあるから配慮が必要!という批判に対して、この授業をやるべき正当な理由を答えてる教育者や、「やめました」「配慮しました」という例を聞いたことがないのだが、どこかに行けばそういう話を聞けるのかしら?

知らなかったが、生い立ちの授業というやつは、低学年の学習指導要領にあるためほぼ必須らしい。2分の1成人式の方は必須ではないらしいが、wikiにも批評は載ってるくらい。

ちょっと想像力を働かせれば、今のご時世多様な背景を持つ家庭があることがわかるのに、そこまでして国がこのイベント?授業?を推し進める理由はなんなんでしょうねぇ。

 

運動会の組体操なんかもそうだけど、親を感動させるために子どもを犠牲にするのやめてったほうがいいと私は思ってるし、そういう声もちらほら聞く。それこそ感動ポルノですがな。

 

 

施設や里親の元で暮らす子を対象としたライフストーリーワークの本

今から学ぼう!  ライフストーリーワーク 施設や里親宅で暮らす子どもたちと行う実践マニュアル

今から学ぼう! ライフストーリーワーク 施設や里親宅で暮らす子どもたちと行う実践マニュアル

 

 学校の授業向けじゃないけど、こういうの参考になるけどね。

 

せめて「親に感謝」じゃなくて、「親以外で今まで世話になった人に感謝」にしたらどうかしら?ひいおばあちゃんでも、塾の先生でも、隣の家のおばちゃんでも新聞配達の兄ちゃんでもだれでもいい。子どもは親だけの力で育っているのではなく、また、法的な親だけが親なのではなく、たくさんの人に支えられながら育っていると気付くことが、親にも子にも大事だと思う。だし、親以外に感謝できる人の数が多ければ多い程、その子は幸せである可能性が高い気がしてる。

問題は、全体的に親以外との関係が今の時代、限られている子が多いこと、あとハイリスク(といっていいのかわからんが)家庭の子はネットワークが全くなくて、誰のサポートも受けられていないことが想定されること。せめてこれを取り扱う担任がそれを担っていればいいのだけど。

 

自分の頃はそんなのなかったが、もしあったとしてどんな気持ちだったか?社会的養護下で暮らしていたわけでもないし、虐待も受けていないけれども、まあ参観日に発表するならさしていい思い出でもない出来事を取り上げて「こんなん言っとけば親は喜ぶんでしょ?」っていう忖度をしただろうし、それで「生まれてきてよかったな~」なんて思えなかっただろう。当時の担任を思い浮かべても私がそう思えるように深められるとは思えないし。

 

で、現在進行形で親(というか母親)に感謝したくない私であるが。実は2年くらい前にとあるスピリチャルセミナーで『両親それぞれに50個づつ感謝していることを書いて、送る』というワークをやらされた。

親を許せない、「私は愛されなかった」という気持ちが潜在意識にあると、人は幸せになれない。どうしても「私には成功する(愛される)資格がない」という洗脳状態から抜けきれない。

ファシリテーターが意図していたことは理解できるのだけれどそれでも辛かったし(ボロボロ泣きながらやった)、本当に複雑な家庭の人は結局送れなかったようだ。やっぱり、まずは恨みつらみ怒りを吐き出したり、縁を切った上でやる、くらいでないと危ない。大人でこれだから子どもはもっとトラウマものだと思う。

 

でも、ここ数日この「母(及び夫)に愛されていない」という気持ちと決別しようという気持ちになっている。いうほど毒親ではないとか、ものすごく都合よく解釈すると愛されてるとも言える、とかそういう面もなきにしもあらずだが。

もう「この人は私のことを本当に愛してないんだ・・・」という想いに捉われるのに疲れたし、そう思って深追いしたところでいいことが何一つないのだ。

それなら嘘の記憶を作ってでも「私ってば十分に愛されたんじゃん〜(≧▽≦)」って暮らした方がなんかいいものを掴めそうな気がありありなんだ。

事実ではなく「記憶(思い込み)」が大事だと。

親じゃなくても旦那でも彼氏でも親友でもありのままの自分を受け入れてもらったかどうか、いや、事実はそうでなくても、自分は受け入れてもらってると捉えてるかどうか。

とりあえず、しばらくの間「私は愛されてるのだ!」と思いながらすごしてみようかな。それでも感じられないなら、自分で自分を大事大事するしかないけどね

 

 

 

心に余裕を持てる選択とは

昨日は上野千鶴子の講演会に参加してきた。日本の男女平等はどこまできたか(だったかな?)というテーマ。一時保育付で無料の講演だったのでかなりお得感があった。

 

学んだことや衝撃的だったことは山ほどあったのだけど、その中で今の自分の状況を振り返るきっかけとなったこと。

 

最後の質疑応答で、子ども食堂で支援しているという方からの質問。

上野先生は、世間からの"子育て中は母親は家庭にいるべき(家庭を優先すべき)という声に負けずに女性に働いてほしい"、ということを仰っていて、その意見に賛同できるが、母親が働いているがために子ども食堂に来ている子たちは、やはり母親の愛情不足を感じる子が多い。そういう母や子に何をしていけばいいのか?

 

という主旨だったかと。上野先生は2点感じたことを仰っていた。

一つは母親の愛情不足というが、親はもう一人いるはず。父親は一体何をしているのか?ということ。

 

もう一つは、母親の愛情不足と感じる背景には何があるのか?子どもを本当に愛していないだけなのか、それとも愛情を注ぐ以外にやらなければならないことだらけで、余裕がないのか。もし、余裕を持てたなら愛情をかけられる親なのに、それができないのだとしたら、それは社会(長時間労働、ワンオペ育児、シングルマザーのひせいきなど)に問題がある、と。

かなり意訳ですが、そんなことを言っておられた。これには深く頷いた。

確かに、虐待する親も、夜中まで働きネグレクト気味になっている親も、育児を手伝ってくれる人がいれば、せめて話し相手がいれば、男性並の生活保障があれば、時短勤務でもキャリアが潰されなければetc...

そんな状況なら子どもに手間暇掛けれたかもしれないと思う。

ちなみに、父親不在はそれ自体が暴力だ、という文言もありました(別の研究者の本からということでしたが)

 

今私が本当に別居を選択し、保育園に移り、仕事もフルタイムに切り替えたら、今のように娘に愛情をかけられるか?というと否。これは断言できる。

よく、子育ては量より質が大事と言われるし、確かに手間暇かけて、十分に向き合わなくたって子は育つと思う。子どもの育ちの力を信頼するのも生きる力を育むことだと思う。とは言っても、もともとフルタイムで挫折した私。疲れ切って時間の余裕もない状態で満足行く関わりができるか?今だって質を保障できないから量で補ってる部分があるのに。

 

カサンドラ症候群の元である夫から解放されれば、確かに私の自己肯定感は上がるだろうし、「夫」からの制約からは自由になる。だけど、転居や転園といった失う経験を補うために今以上に、もしくは今と同等に娘を愛せるか?自信はない。心の余裕って、俯瞰するとお金や時間ともやはり密接に関わることがよくわかるから。そう、今の余裕はお金と時間に関してはかなり恵まれているのだ。

 

結局、私が諦めきれないものはなんだろうか?絶対に譲れないことはなんだろうか?

 

家を出ていこうとシェアハウスを検討したけど、とりあえず短期ならマンスリーマンションでいいかな、というとこに落ち着いていたもののまた堂々巡り。

夫には、このままでは別居も視野に入れることやシェアハウスの見学に行ったことも言ってある。それで「なら出ていけよ」という反応ならば喜んで出ていくが、私の本気度を伝えたことで、これもする、あれもする、と申し出てなんとか食い止めようとする夫。

今までその言葉を信じても実行されず裏切られてきたので信用してはいないが、こっちの要求を飲んででも別居や離婚はしたくないという意志はあるのだろう。

 

とにかく、過去に抑圧され我慢し続けた自分をねぎらいたいんだ。そのためには短期でも別居をして、4月には戻る、というのが落としどころかなー。

 

男女平等という視点では今のワンオペ育児にOKを出せないから、父親はもっと育児というケアに介入しなければならないと思う。それは大前提。

しかし、父親が同等に子育てに関与したとしてもまだ足りないのが今の時代の子育て。父親が(も)子どもの面倒見てるから、他者の手は借りなくていいのではない。ちなみに祖父母だけでも足りないし、特に祖母依存型育児は未来がない(昨日の講演会でそんな話があった)。そういう血縁以外の関わり。「生んだからには人に頼らず自分達で責任持って育てろ」「家族以外に預けるなんて怖い、無責任」「自分たちのやり方に口出しされたくない」といって閉鎖的になるのではなく、やはり子育ての社会化を進めていくことが今子育てする世代の責任のように思う。

 

夫に対してはこれからも要求していく。少なくとも児童福祉を専門とする身として「あんたは育児苦手だし仕事大変だから、しなくていいよ」とは言えない。

ただ、昨日学んだこととして、女性がやってきたことをそのまま男性にやらせることが平等ではない。男性並に働くことが男女平等ではないように。

となると私がやるべき事も、単に育児しない夫を見放して出ていくだけでは足りないのだ。自分がフルタイムで働いて養えればOKなのでもないのだと感じる。

こうやって自分や娘の利益だけでなく社会全体のことを考えてどう行動するか?ということに思いを馳せられるのも心に余裕のある時だけ・・・。数日前まで夫への怒りに支配されていた時には「この先どうなるかとか他人様がどうなろうと知ったこっちゃねぇ!私はこの怒りから解放されてーんだよ!」という気持ちに囚われていたから。

一段高いところから俯瞰する⇒メタ認知ってそういうことなのかもしれないが、それだって心の余裕がないと感情に支配されてしまう。

 

怒りや恨みといった負のエネルギーを合理的にポジティブなことに注いでいく。口で言うのは簡単だけど難しい。でも今日のように比較的メンタルが落ち着いている時こそ、このエネルギーの使い方を考えておこうと思った。

母子家庭向けシェアハウスを内見してきた

幼稚園帰りにチャリで20分・・・のところ道に迷って30分近くかかりましたが、シェアハウスを見に行ってきました。

途中まで幼稚園のお友達と帰り路が一緒で「ちょっとシェアハウスの見学に・・・」って言ったら色々聞かれるかな~と思いましたが「あ~送り迎え大変だからね~」っていう反応で、ホッとしました。そういえば、いつも送り迎え大変だから娘と二人で近くに移住したいって漏らしてたんだった(;^ω^)

 

時間的には3時前だったのでまだ大人は帰っておらず、小学生が一人とそのお友達が来てたのと、ひとりだけママさんがいらした。基本的には不動産会社の方が案内してくれた。

 

〇部屋や廊下では静かに!

これは、シェア生活してたら当たり前なのかも。私が見た棟は子どもは女の子のみでしたが、男子もいる棟はハチャメチャ加減がすごそうな話で、女児と分けるようになったそうな。

〇託児所代わりに使うな!

子どもだけ共用部分のリビングに残して自分は部屋にこもったりすると、「自分の子どもは自分でみとけ!」とお叱りを受けたりするそうです。”みんなで子育てシェア”な雰囲気ではなさそうですね。。。

〇ファミリーサポートさんに逃げられた

上の例と似ていますが、以前、ファミリーサポートの援助会員さん(多分自治体の←)に母親が外出中の保育を頼んだ方がいたようですが、ファミサポさんがシェアハウスの共用部分で依頼を受けた子以外の他の子どもも相手する羽目になったそうで、「もう二度と依頼しないでくれ」と言われてから使っていない、と聞きました。

 

と、たまたま居合わせたママさんがこの話を不動産屋さんと私に説明してくれたのですが、話ぶりから察するになんか怖げなボスママのような住人がそのあたり仕切ってるような印象でした。でもまあ、その方が風紀は乱れないのかもしれませんね。。。

 

〇冷蔵庫やキッチンの収納、勉強部屋なども他の住人の荷物でぎっしり

以前は部屋もガラガラだったそうですが、今は1部屋しか空きがなく、問い合わせも殺到しているそうで、隣の棟は満室でした。で、1部屋空いてても、冷蔵庫の中や共用部の収納などは他の住人のもので埋まってたし、勉強部屋に解放されてる部分もパソコンやらなんやらが山積みだったので、基本は狭い自室で仕事などもしなければならなそうでした。

 

これだけではなんなのでよい部分も!

〇調味料やお米、洗剤、消耗品も全て大家さんが負担してくれる

良い点はこれかな。いざとなったら白米のみでも乗り切れるし、ティッシュやトイレットペーパー使い放題、こだわりがなければシャンプーなどもタダだし、当然ネット代も無料。家賃込みで60000円也。都内同地域で普通にアパート借りるよりは安いし、家電なども揃っているので布団さえあれば即入居、即生活可能な点はいいですね。なんといっても保証人もいらない!

 

 

うちの娘は水曜日のダウンタウンのモンスターハウスが好き、というかクロちゃんが好きなので(笑)、「モンスターハウスみたいなとこに行くんだよ~」と言ったら「ママと一緒ならいくいく!」と喜んでました(笑)実際見学行っても、寝床用のロフト(二段ベッドに憧れている)やリビングのソファで遊んで楽しそうだったし、子どもは年上ばかりなのでお姉ちゃんたちにもなつくでしょう。

 

問題は私、なのですが、迷いますね。今の家(築9年)より新しく綺麗だし、保証人も敷金礼金もなく即入居できるとこなどそうそうないのでねぇ。さらに幼稚園にできれば3月までは通わせたいから自転車移動できる距離がいいし。明日までには決断しよう。

 

それで、帰り途中「そういえば、たまに利用している民間のファミサポ、泊りもOKだった気がする・・・?」と思い出したのです。古い民家で近所のおばちゃんのような人が子どもを預かってくれるのですが、確か母子で泊まることもできますと書いてたので、HP見て確認しよう!と思ったら・・・なんと!HPが消えている!もしや団体そのものがなくなったのだろうか。今度の保護者会の時、預かってもらおうと思ってたのになくなってたらかなりショックです(-_-;)

 

別居するならシングルマザー向けシェアハウス?

今まで何度も別居や離婚を検討したので、シングルマザー向けのシェアハウスはいつもブックマークしていました。

 

私は一人でいるのが大大大好きでプライベートがないと生きていけないタイプではあるのですが(;^ω^)

それでも母子家庭となると経済的な制限のみならず、母も子も人間関係が制限されるという課題があります。シェアハウスでそれが解決というわけではないけれど、そういうあり方も学ぶ必要があるなーと思っていて、”別居””離婚”という大海原に飛び込むならそれくらいの変化なんて大したことないのかもと思ったりもして。

 

近くに実家がある人なら実家に駆け込むという手段があるかと思いますが、うちは東北の田舎で、かつ母親にはあまり頼りたくない(プチ毒)ので地元に帰ることがあっても実家では暮らさないでしょう。

 

今回はプチ家出に近い形で、まずは4月までの短期間の別居を想定しています。ちょうど、収入源となる仕事も春休みで2か月お休みなので(休み中も少額だが給料は入る)、今後の動きを考えるにも引っ越しするにもちょうど良い時期なのです。

 

あと不謹慎だと思われそうだが、私の父親の遺産が多少あったり、将来の教育費として旦那の親からまとまったお金ももらっているので、貯金ゼロからの出発ではないので(それでもせいぜい数百万ってとこ)、多少の気持ち的にも経済的にも、余裕はあります。

 

で、また夫宅に戻るかもしれないし、娘にも急な変化とならないよう、今の幼稚園に通えるシェアハウスとなると実質1か所、そこに内見に行く予定く予定。

 

2日くらいかけて色んな物件情報見たのですが、見落としていたというか、思わぬ壁があって頓挫しかけたりもしました。

どんな壁かというと、

〇離婚が成立していないと入れないとこがある

シングルマザーを対象にしたシェアハウスを中心に探しましたが、まだ婚姻中だが別居という場合には受け入れていないところもありそうです。となると、シェルターのように駆け込み寺にはならないですよね。もちろん、別居中OKのとこもあって、内見に行くところも大丈夫だそうですが、選択肢は減りますね。。。

 

〇40歳未満対象がわりとある

シングルマザー向けではなく一般のシェアハウスですが、年齢制限は想定していませんでした。年齢制限表記していなくてもパーティの写真など見ていると、外国人半分、ウェーイ系の若い男女半分、といったところ。BBAはお呼びでない雰囲気です。逆に、二十歳以上、という制限があると、娘は対象外となります。

 

〇二人で入れるところが少ない

Twitterとか見てると”新しい家族のかたち”とかいって、子育てしながら多世代でシェアするところなんかが取りざたされてますが、そういうところは元々の知り合い同士や仕事仲間などが多く、一般には募集してるとこがあまりないです。”多世代”といいながら、高年齢は少なく、単に赤ちゃんがいる、というだけのところもありそうです。まあ、自分も若いパリピと一緒に住むの、正直キツイからねぇ。

 

あとは当たり前だけど、場所はいいけど空室がない、とか保証人や審査があると身内に知られず、とかは難しいですね。私もできるだけ親族には決まるまで言いたくないですし、頼れる友人も少ないので困ります。最悪、夫に頼みますが、見に行く物件は保証人もなしでOKで助かりました。

 

特に今回は『幼稚園に通える場所』という制限が加わったので、ほんとに少なかった。いいとこだといいけどな。

もし4月以降も継続して別居、となったら幼稚園やめて保活しなきゃならないので、4歳児から入れそうな自治体への引っ越しや、もういっこの仕事(時給990円)はやめて週4の仕事探して、ということになるので、また大変そう。その辺はあんまり情報収集もしてないが、そこまでいったらなんとかなるかなーなんて見切り発車です。

 

一般的にはない方がいい「別居」だけど、これを成し遂げたら自己肯定感がちょっと上がる気がしています。

 

 

 

わかりあえないことは分かっているけど・・・

離婚したい願望は過ぎ去っていたにもかかわらず

なぜか突然沸いてきた「なぜ自分だけが育児で制限されるのだ?」

・そもそも夫は定年制でクビになる可能性が低い

・なのに、子どもが風邪ひいて仕事を休まなければならないなどといった時、夫にはその選択肢が存在しない。私は非正規なので休んだら振替出勤したり(土曜だと託児費もかかる)、振り替えなかったらその分の時給はでなかったり

・土日もワンオペ育児なのは、土日も会社に出勤を命じられているからではなく(そういうことも時々はあるが)、自分の副業のために終わらない仕事の処理

・「仕事に行くのだから育児しないのはしょうがないことだ」という論理

・例えば、土日に人の手を借りてスキルアップのための勉強などもすることだってできるが、なぜそれを手配するのが自分ばかりなのだ?それも、泊りがけの研修など行かれないのだが?

↑こんなことを考えたらだんだん腹立ってきた。

子どもに人生を制限されるのは仕方がないと思える

だが、夫に制限されるのは納得がいかない

夫が仕事に集中し、報酬ももらい、社会的な評価も得ていることは自分や娘の犠牲で成り立っている

育児や家庭の負担を一人で担うことで、私はその土俵にすら上ることができない

そんなの言い訳だ!ワンオペ育児してたってやってる人だっている!←そりゃそうだが、なら夫のための家事や「物理的に居るのにやらない」精神的ストレスを抱えて夫婦やるくらいなら、シングルマザーになった方がより育児にも仕事にも時間を割けるわい。

 

それで、上記のような不満を伝えたところ、4月からは土日どちらかは夫がワンオペするので、勉強などに好きに使っていいよというところまでは歩み寄った。

それでも許せんのだ。

 

世の中には単身赴任やマグロ漁船に乗っていたりで物理的に同居できずワンオペ育児になっている家庭もある

そういった家庭と何が違うのか?考えた

・夫のための家事がある、というか育児より夫のための家事がネック

・物理的な距離や家事育児を実際手伝うことではなく、それを妻が負担していることへのねぎらいが欲しい

・男女差の話をすると誤解も生みやすいが、男は解決思考、女は共感、というのは一理ある。あと、育児に必要なのは子どもに対して一緒に関心を持っているという感覚を持てるかどうかということも大きい

結局育児してほしいというのが私の主訴ではないと気付く

気持ちをわかってほしいのだ

性別が違うからわかりあえない、という側面もあるだろうが、昨今の共感性の高い男性諸君を見ていると、やはりうちの夫の場合、発達障害由来だと思う

つまり、私自身結婚してから愛されている実感がほとんどないし、子どもに対しても愛情を注いでいるというより私にうるさく言われるから構ってやってるだけ、のように見える

今までそれを見てみぬふりして不満を抱えつつぬるま湯に浸かっていた自分にも腹が立つ

悪気はなく、そういう特性なのだろうけど、そうわかっていてもこの「心が通じ合わない」感は辛い

本人はかわいがっているつもりのようだが、はたからみると全くそう思えない。子どもより自分が大事に見える(この辺も特性なんだろな)

そして今までの数々の恨みによって私自身、夫に愛情を持てない

夫としてではなく、他人としてなら尊敬もできると思う

 

一方で自分自身の「人間性を高める」ということを考えた時、

・相手を許すこと

・見返りのない奉仕

が求められる(主にスピリチャル界隈で)。だから葛藤がないわけではない

私だって恨みや怒りから解放されたいわい!

というわけでもうどうにでもなれ~⇒別居したろ(今ここ)

 

そんなわけで虎視眈々と別居の準備を始めたところ。

 

なんか、根底には自己嫌悪があるのだよね。それはわかってる。

夫や実母へのこの許せなさって自己肯定感の低さと繋がってて、結局自分が許せないから母や夫に投影してるのだけど。

とにかくやってみたらなんか変わるかもしれないしねー。

失敗したらそれはそれで、いいんだ、と思えるようになっただけでも成長したと思っている。