何者でもない自分の記録

ブログタイトルはちょくちょく変わります

わかりあえないことは分かっているけど・・・

離婚したい願望は過ぎ去っていたにもかかわらず

なぜか突然沸いてきた「なぜ自分だけが育児で制限されるのだ?」

・そもそも夫は定年制でクビになる可能性が低い

・なのに、子どもが風邪ひいて仕事を休まなければならないなどといった時、夫にはその選択肢が存在しない。私は非正規なので休んだら振替出勤したり(土曜だと託児費もかかる)、振り替えなかったらその分の時給はでなかったり

・土日もワンオペ育児なのは、土日も会社に出勤を命じられているからではなく(そういうことも時々はあるが)、自分の副業のために終わらない仕事の処理

・「仕事に行くのだから育児しないのはしょうがないことだ」という論理

・例えば、土日に人の手を借りてスキルアップのための勉強などもすることだってできるが、なぜそれを手配するのが自分ばかりなのだ?それも、泊りがけの研修など行かれないのだが?

↑こんなことを考えたらだんだん腹立ってきた。

子どもに人生を制限されるのは仕方がないと思える

だが、夫に制限されるのは納得がいかない

夫が仕事に集中し、報酬ももらい、社会的な評価も得ていることは自分や娘の犠牲で成り立っている

育児や家庭の負担を一人で担うことで、私はその土俵にすら上ることができない

そんなの言い訳だ!ワンオペ育児してたってやってる人だっている!←そりゃそうだが、なら夫のための家事や「物理的に居るのにやらない」精神的ストレスを抱えて夫婦やるくらいなら、シングルマザーになった方がより育児にも仕事にも時間を割けるわい。

 

それで、上記のような不満を伝えたところ、4月からは土日どちらかは夫がワンオペするので、勉強などに好きに使っていいよというところまでは歩み寄った。

それでも許せんのだ。

 

世の中には単身赴任やマグロ漁船に乗っていたりで物理的に同居できずワンオペ育児になっている家庭もある

そういった家庭と何が違うのか?考えた

・夫のための家事がある、というか育児より夫のための家事がネック

・物理的な距離や家事育児を実際手伝うことではなく、それを妻が負担していることへのねぎらいが欲しい

・男女差の話をすると誤解も生みやすいが、男は解決思考、女は共感、というのは一理ある。あと、育児に必要なのは子どもに対して一緒に関心を持っているという感覚を持てるかどうかということも大きい

結局育児してほしいというのが私の主訴ではないと気付く

気持ちをわかってほしいのだ

性別が違うからわかりあえない、という側面もあるだろうが、昨今の共感性の高い男性諸君を見ていると、やはりうちの夫の場合、発達障害由来だと思う

つまり、私自身結婚してから愛されている実感がほとんどないし、子どもに対しても愛情を注いでいるというより私にうるさく言われるから構ってやってるだけ、のように見える

今までそれを見てみぬふりして不満を抱えつつぬるま湯に浸かっていた自分にも腹が立つ

悪気はなく、そういう特性なのだろうけど、そうわかっていてもこの「心が通じ合わない」感は辛い

本人はかわいがっているつもりのようだが、はたからみると全くそう思えない。子どもより自分が大事に見える(この辺も特性なんだろな)

そして今までの数々の恨みによって私自身、夫に愛情を持てない

夫としてではなく、他人としてなら尊敬もできると思う

 

一方で自分自身の「人間性を高める」ということを考えた時、

・相手を許すこと

・見返りのない奉仕

が求められる(主にスピリチャル界隈で)。だから葛藤がないわけではない

私だって恨みや怒りから解放されたいわい!

というわけでもうどうにでもなれ~⇒別居したろ(今ここ)

 

そんなわけで虎視眈々と別居の準備を始めたところ。

 

なんか、根底には自己嫌悪があるのだよね。それはわかってる。

夫や実母へのこの許せなさって自己肯定感の低さと繋がってて、結局自分が許せないから母や夫に投影してるのだけど。

とにかくやってみたらなんか変わるかもしれないしねー。

失敗したらそれはそれで、いいんだ、と思えるようになっただけでも成長したと思っている。

あれ・・・書評書くつもりが全く書評じゃないや!

どうしたら自信を持てるのか?個性を活かせるのか?自分らしく生きれるのか?って本を延々と読み続けている。そういう自己洞察(自己啓発)がテーマじゃない本を読んでも結局受け取るのは「人と同じなするなんていう普通のことを選ぶな!」「幸せになるには、自分らしく生きるには、固定観念から自由になって言いたいこと言うしかない!」って言うこと。時間が立つとまた自分難民になるんだけど、また読んでインプットする。その繰り返し。

 

そんななので、こんなタイトルの本で、しかももぎけんさんの本だったら買いますよ。

「いい人」をやめる脳の習慣

「いい人」をやめる脳の習慣

 

 私は自己評価が低いってのもあるけど、自分のこと性格悪い、下衆い、と思っている。でも「いい人になりたい」と思ってきたし、いい人だと思われるような振る舞いをしてきた。自分がいい人じゃないからこそ、いい人にならないと人に受け入れられない、愛されない、人気者になれない、と思っているのかもしれない。

いい人と思われたいという願望と直結するかわからないが、自虐することで評価を得たいという側面もある。が、目上の人(というより年上?)には自虐が通じないとただの「ダメ人間」のレッテルを貼られるだけなので、あまりしないなあ。

ある種、自虐はボケで、相手にツッコミを入れてほしいのだと思うが、そうやって自分の存在価値をアピールしたいのかもしれない。

一方で目上の人にはめちゃ「いい子(いい部下・いい下っ端)」アピールする。これも昔からの習性で、目上には自虐よりも「あなたの言うことをハイハイ聞くことができてかつ尊敬してます」アピールが効く気がするんで。体育会系にゴマすりを兼ねたような?むしろ真面目系クズってやつか?

そんな多面性をもつことなんかも自分でやなやつだと思っていて、より一層「根っからのいい人になりたい!」と思う所以かも。

 

好かれたいというより、嫌われたくない、仲間外れにされたくない。一方で、普通に染まりすぎるのも嫌で個性的な自分でもありたい。

それがだいたい35歳くらいまでの私。

その後、仏教系の「考えない練習」とか「反応しない練習」とか読んで、

 そもそも「自分の個性を!」なんていうエゴは捨てて、人のために尽くすことこそ至高。という考えに変わったものの、もともと自分軸がなく振り回されやすいタイプなのですぐに疲れる。

アドラー心理学ももちろんかじっている。「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」も何度も読んだし。

 

私の場合、「嫌われてもいい」ではなかなか本心や本当の意見・感情を言えないので「むしろ嫌われに行く!」くらいの心づもりじゃないと無理かもしれない。

 

前にブログに書いた気がするが、大学生の時、毒舌キャラだったりおやじキャラを演じていた。今よりエッジは立っていたと思うが、思い出すと結構赤面モノ。思い出すだけでうわー!!ってなって死にたい消えたいってなる(*´Д`)

それでも、もしかしたら無味乾燥な今の自分に比べたら得るものも多かったようにも思う。

 

 

去年、とことん自分と向き合った気がするので、しばらく外側に目を向けよう。

と思いつつ、メルカリで似たような本を注文してしまうのであった。

 

 

 

 

 

スピ依存から抜け出したいわけでも依存していたいわけでもない

年が明けて、低空飛行(むしろ地下に潜ってる?)しています。毒母にしばらく晒されたり、アスペ夫にイライラしたりってのも要因ですが、それ以外にも応募予定だった仕事がすでに締め切ってたりとかそういうのも重なりかなり低い状態にあります。

なんか困ったらとりあえずスピリチュアルな人に霊視してもらったりヒーリングしてもらったり・・・時間がたてばまたいつもの状態に戻るんだけど、神頼みのように依頼してしまいます。「この人だ!」と決められない質なので特定の人に入れ込んでるわけでもなく、テーマによって使い分けていますが。

 

正直、こんな状態だと投げやりになるので「スピリチュアルなんて役に立たねーよ!」という気持ちにもなってまして、今回もヒーラーさんの「その後どうですか~」の問いに「調子悪くて、嫌なことばかり目につきます」とか答えていて、それでもなお「波動が上ったからそんなはずないよ!もっと思い出してごらん?!」とアゲアゲで来られてイラッ(;^ω^)としましたが・・・そうはいっても確かにいつまでもネガティブでは居られないので、ヒーラーさんからの宿題をやってみます。

 

①今気になることや悩み

身近な母と夫が私の人生のガンであることにここ数週間改めて自覚したこと。かといって他に頼れる人がいるわけでもないこと。縁を切るってことももちろん考えるけど、そうなると今後のビジョンをマルっと変えなきゃいけないと思うし、「結局自分はこれから何を目指せばいいのか?」途方に暮れてしまうこと。

 

②自分が嫌いなもの、嫌いな事

人混みとか行列。体を動かすこと。

 

③すぐに行動できない時は何がいつも気になるのか

行動した後に、やっぱりやめたくなったら?自分に抱えきれなくなったら?失敗したら?などなど、うまくいかなかった時のダメージやリスクが不安でブレーキをかけてしまう。

 

④どんな人が苦手ですか、嫌ですか

思い込みが激しい人。私が下手に出るからと言って偉そうにする人。批判ばっかりする人。

とはいえ実は、実母、夫ほど悩まされる他人なんて実はいない。

実母・・・コントロールしてくる

夫・・・共感力が低く、気持ちへの理解が低い。そもそも私への関心が低い。

 

⑤人生において、嫌だと思う減らしたい事は何ですか

思ったことをズバッと言えないこと。評価ばかり気にして何も言えない、できないこと。あと傷つくのも怖くて言えない、できないこと。

 

⑥どんな人生だけは生きたくないですか

世間体や古い価値観に縛られて本当は必要ないと思うことを嫌々やること、また、娘にそれを強要すること

 

⑦人生でもっと増やしたい事、喜ばしい事は何ですか

人に無条件で愛されたい。受け入れられたい。頼られたい。

 

⑧どんな人生を生きれたら最高ですか

私にしかできないこと、私だからできることで人の役に立ったり、社会を変えていくこと

 

⑨絶対失敗しないとしたら何をしますか

起業する(NPO法人を作る。何をするかは不明)。発信すること(研究や社会的に認められる形で文章化すること)。

 

①⓪明日自分が亡くなるとしたら何をしますか

子どもにありがとう、大好き、と言い続ける。

 

①①200歳まで肉体も精神も元気で入れるとしたら何をしますか

里親など、家庭で暮らせない子を養育する。研究者になる。スピリチュアル能力が得られるような修行をする。

 

①②どんな自分になりたいのか

どんな自分であったとしても「それでOK!さすが自分!」と言える自分になりたい。

 

①③どんな人生を送りたいのか

何をするにしても自信をもって、これでよかったんだと自分の選択に責任を持てる人生を送りたい。

 

うわー。相変わらずふわっとしてるなー(笑)

もう40歳も過ぎたのに、相変わらずこれとこれ!っていう具体的なやりたいことが思い浮かばず抽象的(笑)

 

 

追記

これ書いたの4~5日前ですが、なんか突然鬱スイッチが切れてめちゃくちゃ安定している。まだ施術は受けてないけど、これ書いたおかげなのか、なんか別のきっかけなのか?わからないけどこの状態がキープできればい~な~(*^^*)

 

鬱脱してから読み直して、変わった項目あるかな?と思ったけど特にない。やはり、何かを変えるとか行動を起こす、とかも大事だけど、どう受け止めるか?今の生活を前向きに評価することが一番幸せに近い気はしてます。

タイムマシンで結婚前の自分に「結婚するな」と言いに戻ったとして

もしタイムマシンがあって夫と結婚する前に戻れたら、

「絶対にこんなやつと結婚するんじゃないYO!」と言いたいところだが、

きっとそれでも阻止できないだろうなと思う。

それは「それだけ夫に夢中だったから」では断じて、ない。あと「夫と結婚しなければ今いる子どもが生まれなかっただろうから」でもないな。

 

1点目の理由は、

結婚直前はそんなことを聞いても冷静に判断できる状態じゃなかったから。ワーカホリックでうつ状態だったので多分、今をやり過ごせるならそれでもいいと思ったはず。

 

2点目は、

発達障害ならなおさら乗り越える壁があっていいじゃない!?私しかこんな人受け入れられないよ?それに、障害を理由に別れるって人としてそれでいいの?と思っただろうから。そもそも共依存体質なので「この人には私がいなきゃダメね・・・」と思いたいタイプなのと、普通の人が嫌で変わった人が好きだったから。自虐で人の気を引きたいので「私の彼氏(夫)はこんな変な人でさ~」と言う傾向があり(つまり変人ほどネタになる)、それまでも変わった人とばかり付き合っててそれが刺激的だとも思ってた。

 

結婚してからも「普通の人」と結婚した人の話聞いても羨ましいとは思わなかったな~。つまらなそうと思ってた。でも決して夫との生活が刺激的で楽しかったわけではなく恨みばかりだけどね。負の要素ばかり。

子どもが生まれて初めて「普通の人っていいな!普通の人と子育てしたかった!」と思った。それにこの人発達障害だなと気付いたのも子ども生まれてからだったし。

普通の人、羨ましい!ってのも最近はまたなくなってきたな~。かといって夫が最適とも思わない。ちゃんと共感能力のある変人と過ごしたい。

 

あんたが付き合ってる人は発達障害で、あなたの気持ちはこれっぽっちも共感してもらえないし、今期待してることもほとんども叶えられないよ。それどころかあなたのキャリアも子育てもめちゃくちゃになって今よりもっと自分のこと嫌いになるよ

くらい言ったら効果あるかもな。

今の思考をそのまま当時の自分にインストールできたらいいんだけどね。それだったら結婚してないと思う。

 

いずれにしてもタイムマシンで戻ることはできないので、これから考えることは「それでも一緒に居るのか?だとしたらいったい何を学ぶための夫婦なのか?」「離婚してとっとと自分の人生取り戻す」どちらなのかってこと。

 

特性は「治る」ものではないので、話し合って変えてくか、距離を取って見ないようにするか、しかないように思っている。

 

 

結末を知ってるけど切ない。というより、結末を知ってるから泣ける?

 

先日ボヘミアン・ラプソディを映画館で見たとき、泣きポイントが山のようにあったのだが、そのほとんどは「いずれ死ぬ」ってことを知ってるからなんだとおもうんだよね。実在する人だからかなー?とも思ったが、でも、「レオン」とかも何度も見て結末知ってても泣けるからなぁ。

ボヘミアン・ラプソディーの感想はFBのオンラインサロンのページに書いちゃったのだけど(本のレビューも結構載せちゃった)、文章化したものが消えちゃうのがもったいなくてやめたくてもやめれず幽霊部員化してる。月数千円の会費とどっちがもったいないだろうな・・・?

 

今頃になって板尾創路氏の板尾日記を読んでいて3巻まで来た。

板尾日記3

板尾日記3

 

 

というか、3巻にお子さんが出てくると聞いてここまで読んだ。すごく、切ない気持ちになりながら、読んだ。日記なのでネタバレ云々というものでもないし、一人目のお子さんが亡くなった子とは別に「結末」というわけでもないけど。

誰か後輩芸人のネタで、”板尾さんがマトリックスの様なグラサンにロングコート姿でベビーカーを押して街を散歩してた”って話があったが、この頃なんだろうな~。実際に散歩に連れていく描写もあったし。

 これがもし娘さんがまだ生きていて、「不倫騒動でお父さんのこと嫌いになって口聞いてくれなくなった」とか「不登校で引きこもってるらしい」とかそういう後情報を知っていたら、どんな気持ちを抱くんだろうな?とは単純に思った。

 

スピリチュアルな考えを信じている私は、人間がこの世に生まれてくる理由は「愛を知るため、感じるため」だと思っている。愛を知る方法って100人100通りあって、あえて不自由な体を選ぶことだったり、あるいは愛する人を痛めつけてしまったりすることで「愛とは何か?」の片鱗を集めていくのだと思う。早死にすると「不幸だ」という風潮があって、がんになった人が抗がん剤を拒否して早く亡くなったりすると「抗がん剤さえやっていればもっと長生きできたのに…バカな情報に振り回されて気の毒に…」と言われたりするけど、本人の好きにさせたれよ。「残された家族や友人のために長生きすべきだ!そのためには意志に背いても苦しんでも立ち向かうべきだ!」ってことでしょ?

本人が亡くなる間際に「やっぱ長生きしたかった( ;∀;)治療しとけばよかった」と思ったとして時すでに遅し状態になったとして、その人はそれを味わうために生まれてきたのだよきっと。

なんてことを言ってても、もし娘が死んだら私は自分を責めるだろうし、病気になったら延命したいとも思うかもしれない。それならそれを感じる必要があったのだ。

とはいえ、次にがんになっても私自身は抗がん剤はしないつもりだ。父が亡くなる前も、私は「治療なんてしたくなきゃしなくていいし、家に帰りたかったら退院したっていいと思うよ」「抗がん剤やっても生活の質は上らなかったでしょ?これ以上やっても副作用で命落とすよ?」と細々と言っていたが母にはヒンシュクかったし父は亡くなる数日前まで「別の抗がん剤を試してみたい」と治療に前向きだった。

 

話は逸れたけど、つまりは2年も生きられなかったとしても、板尾さんの娘さんは十分に愛を受けたのではないかと。少なくとも41年生きてきていまだに母に愛されたと感じていない私以上には愛されたから天に召されたのでは。人様のお子さんに勝手なことを言うようだが、でもそう思った方が、みんな幸せじゃないかな。

 

板尾さん=ミステリアスとか天然ってイメージあるけど。こういっちゃあなんだが、ホンマもんの変人(うちの夫)なんかに比べたら育児への関わりも人への共感もちゃんとあって良いパパに見えた。子どもを見る眼差し、家族をいたわる姿がすごく素敵に思えたし。

昔っから育児本とか好きで20代の頃からよく読んでたけど、産んだ後はあまりエッセイとかは読んでない。日記ではあるけど、男性視点のものを読んでみて「子どもを慈しむって当たり前のことのようで、誰でもできることではない」ってことを感じた。うちの夫が子に関わる姿がロボットのようだから、ね。例えば抱っこから降ろすとき米俵をどさっと置くかのように降ろしたり、娘はうまく着地できずにぶつけて泣く、みたいなこともよくあったなー。たった30分、買い物に行く間「娘見てて」って頼んで、帰ったら一人で風呂入ってて「だって寝てたから。」とかさ。子どもが寝てる横に高ーくモノ(雑誌など)を積み上げる、とかさ。

 

いや、ほんとにね。「なぜHSPの私がアスペと同居しなきゃならんのか?どうやって愛を感じるのか?この人生の意味なんなの?」っていうスピリチュアルな問いの答え、誰か教えてほしいわw

 

「生をあじわう」のって大変だね!

 年末年始、この本を読んでいたのですが

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

 時間がかかりました。10日くらい。家の近くで、昼間行きたいときだけ行けて、ハードルが高くなく、かといって学部上がりの院生だけでなく社会人もいるような、自分の自己肯定感をアップでき、かつ議論できるような場所が欲しいなーと思いました。

社会学はやっぱ面白いねー。

 

それが終わったので読書の速度も戻りましたので久々にこちらで書評をば。

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

本屋に行くとめちゃくちゃプッシュされてますよね。又吉さんがおすすめしてたのが大きいらしいですが、 アメトークの読書芸人は毎回見ているのに、最近まで本に興味がなかったので全然知りませんでした。

私は、やはり人間関係というものにコンプレックスがあるわけです。なのでもう40も過ぎて友達少ないことなんてどうでもいいはずなのに、それにポジティブな意味づけをしたくなるわけです。

先日読んだ、茂木健一郎さんの本では、自分の個性に気付くには他人と出会わなくてはならないし、個性を形成するには社会的なネットワークが必要だと書かれていて、絶望したのですが、こちらの本では、

「生のあじわい(=生きてる歓びや幸福を感じること)」をもたらすのは、自分ではなく他者であることが書かれていました。

確かに「生きててよかった!」「私は今幸せだ!」と感じるには他者に承認されることが手っ取り早い。一方でこの本でも述べられているように、「脅威の源泉(=自分の不幸にするもの)」もまた他者だということ。

 

私は自分が回避性人格障害だろうと気付いたのは3年くらい前。人と深く付き合うのが怖い。昔はそんなことなかった気がしますが、年を重ねるごとにその傾向が強くなっている気がしますが、過保護過干渉な毒母の影響もあるし、鬱で仕事辞めたことも関係してるだろうし、カサンドラ症候群(夫が発達障害と思われる)なのも追い打ちをかけていると思います。

だから、できることなら人と関わらずに幸せを得れたらいいなと思うわけです。が、学者が書く本を読んでいると、私の思い描く「いつも幸せ♡」「今生での使命を果たす」「私らしく生きる!私の個性を知る!」みたいなふわふわしたものも、結局は人間関係を通してしか気づけないようなのです。

しんどっ!

 

いや、今はそれなりに人と関わって生きてますよ?ママ友もいるし、人前に立つ仕事もしてるし、いちばーん苦手な子ども相手の仕事もちょっとはしたし(たった1年半な)。でも、私の本性をさらけ出しては全くないし、いつも誰かを演じている感はある。「夫にだけは本性出せるわ~」「お母さんはいつも私の味方してくれるから愚痴聞いてもらえてありがたいな~」というのがあればそれでもガス抜きできるんだろうけど、前述のように毒母&アスペ(多分ね)のコンボなのでむしろ余計ストレスになるわけです。しいて言えば娘は無条件で私を受け入れてくれる。でも4歳だよ。依存しきると、今度は娘が将来アダルトチルドレンになってしまうでしょう。

 

著者の言う「生のあじわい」こそ生きてる意味、生まれてくる意味なんだろうなとはぼんやり思う。でもやはり他者からしか得られないことには絶望もする。確かに他者からの承認されるとうれしいし、やる気にもなる。それが真理なのだろうけど、でもでもやはり、内発的な動機づけ(自己承認)のみでも得られる幸せや、使命感みたいなものも追求したいとも思ったり。逃げかもしれないけど、支え無しに「脅威の源泉」に立ち向かえる気がしないなぁ。そこは諦めたくないなと思います。いやだって、マズローの欲求5段階説だって、承認欲求の上に自己実現と幻の自己超越があるんだもの!!

<追記>あとで気づいたけど、欲求5段階説は下から順に満たされてないと次に進めないわけで、つまり承認欲求が満たせないまま飛び越していきなり自己実現欲求を満たすのは、無理ではないけどそこが内側から湧いてこないってことですね…。その承認欲求が自分で満たせればいいのだけど、なかなかそうはいかないだろうな~。やはり人と関り褒めてもらうしかないのか…。

 

2点目。世の中で起きている現象はすでに社会学で説明されてることが多い。しかもだいぶ昔に。だから社会で起きてることを俯瞰して正確に把握するためには勉強(知識をインプット)することが大事だし、それを学者とは違う表現でどうアウトプットすれば伝わるかを考えるのも大事だなーと思いました。

 

 

3点目。教育との関連について。自分の人間関係はさておき、これから娘っ子は学校というコミュニティに属し、今は経験していないだろう様々な人間模様に触れることになる。ただ、今のところ未就学なので私が学校(義務教育)に関わっていたのは自分の中学生だった16年前以上前まで遡るか、あるいは院生時代に中学校で1年だけやったバイト、それでさえ18年くらい前か?というくらい前なので、日常的に学校と接点のある筆者と学校の捉え方というか学校の見え方が違うなとは思いました。いずれにしても「学校(や教師)なんかにたいしたこと期待するものではない」という結論にはなるのですが。

自由を保障するための最低限のルール(こうすべき、ではなくこれだけはしてはいけない)さえ教えればいいのかなーと。個性を伸ばす教育ではなく個性を邪魔しない教育が望ましいと思うし、個性的な人間というものはなろうと意識してなるものではなく、普通にしようとしても力量が溢れ出てしまう人のこと、というのも言われてみればその通りだなーと思う。でも、多くの教師が思い描く”最低限の社会生活”というのは、筆者の言う”同調圧力”に屈することのできる大人を目指すんじゃないかなーという気がしてます。知らないのにこんなこというのは失礼だけれど、公立の学校教員に天才がわんさかいるとは思えないので、天才が天才性を発揮しながら、一方で社会にも受け入れられるように折り合いをつけるやり方を凡人がどう教えていくのか?さっぱりイメージがつかないのです。
最近読んだ本がとがった人が書いた本も結構多く
気に入らない人とは折り合いをつける必要なし!
自分で限界を決めるな!
という思考に毒されていたので、ある種ノーマルな人の考えに触れられて良かったなーとは思います。

そんなわけで、娘には「みんなと仲良く」ではなく気に入らない相手とはそれなりの距離を保ちつつ、傷つけ合わずに共在してほしいと考えるようになりました。

 

最後4点目。著者はなぜ亡くなったのか?

はい。スピリチュアル全開な問いです。帯を見てびっくりしたのですが、著者が亡くなった5か月後に著者の娘さんも急逝されたとのこと。しかもこの本はその娘さんのために書かれた本であったということ。こんな因果ってあります?シンクロニシティってこういうことを指すんですよねきっと。

帯は奥さんが書いてらっしゃいますが、

もしかしたら私は『友だち幻想』を皆さん伝え届けるメッセンジャーという運命だったのかも知れません。

と結んでいます。いやこれ、本当にそうだと思います。友だちなんて幻想を捨てて自由になろう!幸せになろう!ってことを今のこの時代に刻むために、生まれてくる前に3人で相談して、それぞれ役割分担をしたとしか思えないんですけど。

 

長く生きてもやろうと思ってきたことをやらないまま来世に持ち越す人もいるだろうし、寿命より短くしか生きられなくてもやろうとしたことを達成して死んでいく人もいると思う。去年父を亡くしてますます思うのは、辛い思いしてまで長生きする必要はないなってこと。とはいえ、その「辛さ」を味わうために生まれてきたのなら全うしなきゃいけないんだよな。私がこういう自省タイプなのは父の遺伝子を受け継いでるからと確信しているが、父は亡くなるまでに答えは見つかったのだろうか。

そろそろ、いつ死んでもいいように、今生でやるべきことをやらんとなーと思います。一つは娘に「大好きだよ~」と愛を伝えること。あとはなんだろな?それがわからないうちは死ねないのかな。

 

 

 

 

 

身内だけで育児することへの違和感

今日は娘を屋内遊戯施設(有料の児童館のようなとこ)に連れて行った。0歳から私一人で色んなとこ連れて行ってるけど
4歳になるとホント楽だな~としみじみ思う。逆に何が今まで大変だったかというと、
・遠出すると途中で歩けなくなるので抱っこが辛い
・ちっちゃい頃は付いて回らないと大きい子にふっとばされたりする
・我が弱い(笑)ので、他の子が使っていたり、他の子におもちゃを取られたりすると呆然と立ち尽くす
・「ママ一緒にやって!」「ママ見てて」←これは今もあるけど…やりとりが一方通行なのでお互い伝わりにくい
などなど。今はそういう心配がほぼないし、仮にずっと遊びに付き合うにしても干渉しすぎず
依存され過ぎず、ちょうどよく過ごせる。

なので、さすがに本読むのは無理だったが時々スマホ見たりするくらいはできるし
考え事しながらニコニコしてるだけならそんなにストレスがたまらない。

今日は何を考えたかって言うと、まあ、いつものように2~3人連れてるママ見て
「えらいな~」「もしもう一人授かってたとして二人連れてこんなとこ来るの自分じゃ無理だな~」とか
思ったりしつつ、一番気になったのが
ジジババ率高っ!!
ってこと。
子どもは冬休みだけど年末年始の休暇後の平日、っていう条件だからなんだろうけど
でも保育園や学童はもう始まってるから、やはり幼稚園児か未就園児なんだと思うんだよ。
で、帰りにはまさに保育園帰りの子を連れてるばあばを家の近くで見かけたんだけど
2歳前後の子をおぶって、リヤには年中くらいの子を載せ、非電動の自転車(3輪タイプ)を漕いでてさ、
「いやいや、そこまでばあばにさせるなら電動三輪車くらい買ってあげたらいいのに・・・」と
余計なお世話だけど思ってしまった。

自分は両方とも地方在住で日常的に祖父母の手を借りられないっていう僻みもあるかもしれない。
実母なんてプチ毒親だから仮に近くに住んでてもあんまり頼りたくないけれど
それでも年に数回は通院とか職場の飲み会などで往復新幹線+ホテル代で負担させた上で呼び出したこともある。

昨日まで1週間近く帰省してたけど、育児は丸投げしなくても家事は丸投げで上げ膳据え膳で過ごしてきた。
いとこなんていわゆる”スープの冷めない距離”に実家があるので色々と頼ってるのも見ていて、
特に共働きが多い昨今それが理想的な形なのかもしれない。
ちなみに去年まで通っていた保育園もジジババの送迎が割と多かった。これは、ジジババが近距離に住んでるからこそ
ポイントが低くて認可に入れないせいだと思われる(認証保育園だったので)。

じゃあ、専業主婦はどうなのか?というと、専業こそ普段のワンオペ育児の負担を軽減するために
実家を活用しているご家庭は多い。特に、二人目三人目を出産するとなると必須とも思える。
例えばお隣さんの娘さんはまあとにかくしょっちゅう子ども二人連れて里帰りしてる。
お隣のばあちゃんが言うには(スピーカー系なので、聞いてもないのによくしゃべる)
姑がテンプレ的ないじわる姑で、旦那は育児も家事も手伝わずさらに姑の味方なので
奥さん(隣の娘さん)の方はストレスたまりまくりで実家の母親と姉に子どもを見てもらって
ゆっくり寝たり友達と飲みに行ったりしたいのだそうだ。
隣のばあちゃんは毎週毎週大変よ~とこぼしつつも、娘かわいさと孫が姑ではなく自分になついていることから
まんざらでもなさそう。とはいってもがんの治療したりひざの手術したりで体は見ててきつそう。


専業で子育てしてるママ友見てても、お隣さんのように結構実家頼りの人は多い。
一人で抱え込むよりは実家が頼れた方がいいとは思うのだけど、
なーんか違和感が拭えないのだ。いや、ほんと、ただの嫉妬かもしれないよ?

今日特にそう感じたのは、たまたま昨日こんな記事を読んだこととも重なる
withnews.jp


シェアハウスで独身の人たちにも子育てを手伝ってもらう選択をした人に対して
「事故があった時の責任は?」「自分たちだけで育児ができないなら子どもを作るなと思う」などといった否定的意見が多く寄せられたそうだ。
なんだかなー(-_-;)

母親はすでにいっぱいいっぱいなので、実家にも頼るなと言われると詰む。
でも、祖父母にばかり頼るのもなんだかお互い不健康な気がする。
まずは、父親がもっと育児に関われる社会にすることは必須。価値観もそうだし働き方も。
でも、夫婦や身内だけで育児を完結すべきという風潮は、いかんよ。
子育ての社会化と言われて久しいが、働くために保育園に預けることだけが子育ての社会化ではないと思う。

note.mu

この石山アンジュさんの拡張家族もそうだし、上記のシェアハウスでの子育てもそうだが
多様な価値観・家族観が認められる社会になってほしい。
昔のように地域のカミナリオヤジが近所の子を叱る、といったようなやり方は今は無理だし回帰する必要もないと思うが
別の形で子育てにもっとたくさんの人が関与すべきだと思う。

母親も例えお金がかかってでも子どもと離れてリフレッシュしたり、自分の好きなことに時間をかけられるような環境を持てるようになってほしい。
母親が我慢することを良しとする価値観はもういらない。子どもにとっても有益ではない。

っていうようなことをなんとかして広げていきたいと思ったのであった。
まだこういう違和感をうまく言語化というか論理的に説明できないのがもどかしい。
母子でシェアハウスにでも引っ越ししよっかな~なんて考えたり。
今年はシッターサービスとかもうちょい使う予定。
自分が楽する目的でもあるけど、みんなもっと外部化していいんだよ~ってことをちょっとずつ広げていきたい。